木の節(フシ)
2002年9月
指圧師 木 村  浩


木の節(フシ)

 時々ジョギングをしています。何種類かのコースを自分で設定して、近所の公園をスター

トして20〜30分走り最初の公園に戻ります。公園に戻り一通りのストレッチを済ませ、

ひとつのベンチに腰掛けようとした時に木製のベンチの「木のフシ」が目に入りました。

そのベンチは見た目は園内の他のベンチと同じものです。しかし同じフシをもつベンチは二

つとしてない。そのフシをもつことで一見同じように見えるベンチも実はひとつひとつ異な

る「個性」を表現しています。

 これがプラスティックであれば「均質」で同一の製品になるのでしょう。均質な性質をも

つ素材は製作過程では大変なメリットとなります。しかし均質に大量生産されたものは

「味」という点では魅力にかけるでしょう。木工職人は製作工程からすればじゃまなそのフ

シを作品の「魅力」としてどのように見せるか?ということに心を注ぐのではないでしょう

か?


 木にとって「フシ」はどんな意味があるのか?木の人生(木生?)にとってどんな役割を

はたしているのか?本当は木が育つ上ではフシは余計なものなのではないのか?人にとって

はベンチを作るときに「味」となっても、実は木にとってはよけいなやっかいなものであっ

たりするのか?それとも木が育つ上である役割を担っているものなのか?

自然はとても巧妙です。不必要なものは何一つないような気もするのですが・・・


 人もひとりひとり性格もちがえば顔もちがう、体型も人それぞれです。同じ人は過去にも

未来にもいないし世界にただひとりの存在です。全ての人のカラダは決して均質に作られた

大量生産された製品ではありません。人のもつ体にはそれぞれの特徴があります。 その特

徴は人にとっての「フシ」であると言えるかもしれない。それがその人にとっての「味」?

しかし体内にあっての「フシ」はどうか?人体の標準としての均質な性質の中にあって標準

外の異質なものである「フシ」、それは病気の温床といえるかもしれない。それは生まれ

もっての遺伝子に組み込まれたものかもしれないし、生活習慣も含めた環境によってできて

くるのかもしれません。


 解剖学者の方の話で、亡くなった人の解剖の際に直接の死因とは別の病巣がその人の体の

中に発見されることがあるそうです。それは木がフシとともに育つように、その人と「共

存」する木のフシと同じ意味であったのかもしれないと思うのです。

もし、木がよけいなものであるフシとともに木の「人生(木生?)をまっとう」しているの

なら、人も体にとってのフシ(病気のもと?)とともに人生をまっとうできないか?

仮にあまりにも異質で大きくなりすぎたフシが病気を発症させるのなら、それを「治療」す

る必要がでてきます。しかし内包されたフシが病気を発症させないのであれば、さらにいえ

ばそのフシを抱えながら共存し、なんとかかんとか「一生をまっとうする」ことができるの

なら、そのフシはあっていいことにはならないか? そんな事を考えます。

 それでは、「一生をまっとうする」とはどういう事か・・・・・   2002年9月



目次にもどる