心に残るごはん  




 昨日はカミさんと待ちあわせて駅前のラーメン屋「福しん」でいっぱいやり、野菜が沢山の 

タンメンと餃子(日曜日限定6ケ100円!)で晩飯にした。食事のしたくと後片付けから解放さ 

れる贅沢もあり、うまかった。日頃は外食はほとんどしないのだが、たまにはいいのである。 





 向田邦子さんのエッセイ『ごはん』に「こころに残るごはん」のくだりがある。

「 おいしいなあ、幸せだなあ、と思って食べたごはんも何回かあったような気もするが、そ 

の時は心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあとに残らない・・・人並みにおいし 

いものも頂いているつもりだが、東京大空襲の翌日の生き死にに関わりのあった『ごはん』は 

どうしても思い出にひっかかる 」 とある。

生命の危機を実感する時にする食事は、生きる事と食べる事の直接の繋がりを感じる記憶にな 

るのだろう。

自分はどうだろうかと思ったときに、生き死にに関わるほどの中でする『ごはんの記憶』が、 

幸か不幸か(もちろん幸にきまっている)自分の中に思い当たらない。




 山登りの途中で食べた握り飯やチョコレートが、ただちに自分のエネルギーに変換すること 

で食べ物のチカラとありがたさを実感した経験は幾度かあるけれども、食べ物にほとほと困っ 

た人生をおくらずにここまで生きて来れた(この先はどうか?)





向田邦子さんが書かれているように「 おいしいなあ、幸せだなあ、と思って食べたごはんも 

何回かあったような気もするが、その時は心にしみても、ふわっと溶けてしまって不思議にあ 

とに残らない 」のだとすれば、先に『幸か不幸か』と書いたけれども、生きる事と、食べる 

ことが、直接に繋がることを感じられない食事ばかりの日常が一点の曇りもなくシアワセと言 

えるのだろうか?



   

   昨日の弁当。自分で作った弁当はホントにウマイ






 そのシアワセをかみしめて『ごはん』を食べているだろうか?   2018年 5月




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