73回目の終戦記念日・9回出撃し9回生還した特攻兵の話 





『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか9回出撃し9回生還した特攻兵』        

鴻上尚史著 講談社現代新書 を読んだ。



             



 鴻上さんはある本の小さな記述により、「9回特攻に出撃して、9回生きて帰った人」の事を

知ります。その人の事を調べるうちにその方が札幌で生きていらっしゃることを知り、どうして

も会ってお話を聞きたいと思い、2015年に実際に会いに行き、5回お話をされています。

(その方、佐々木友次さんは2016年2月9日に亡くなられました)そして、小説「青空を飛

ぶ」(講談社)を書くのですが、小説に載せられなかったインタビューや特攻に関する調査を踏ま

えた上での自分の思いも書きたかった。というのが本書です。

佐々木友治さんは飛行機に憧れてパイロットになり、軍隊に徴兵されて特攻を命ぜられます。死

に向かって出撃の離陸をするその描写に、まるで自分が特攻兵となり飛び立つような緊張と不安

な気持ちを強く感じつつ読みました。




■「軍神」は死なねばならない


 特攻の無意味さと理不尽さに佐々木伍長の所属する特攻部隊の隊長は上層部に訴えます。爆弾

を抱えて敵艦船に体当たりする特攻の戦闘理論とその成功が確率的に破綻しており、攻撃の選択

肢は他にもあることを。しかし上層部の決定は覆りません。軍命は絶対なのです。

しかし、優秀なパイロットでもある隊長は「出撃しても爆弾を命中させて生きて帰ってこい」と

上層部の命令に背く、軍隊組織では死刑に相当する発言をして佐々木伍長達を奮い立たせます。

優秀であればある程その人的損失が甚大であるのに、戦意高揚に利用するための絶対的成功を収

めることを担保するために、優秀なパイロット達を選び、最初の体当り攻撃を命じます。そして

当時のマスコミも加担して実際以上の戦果と美談を作文します。(戦局の最終局面では未熟で年

若いパイロットを練習機のような整備不良の機体さえ使って、撃ち落される可能性が限りなく高

いのに特攻をさせるのです)

佐々木伍長の部隊長は、儀式好きの参謀本部長の宴会に出席させられるために、遠方にある基地

へ向かう危険な敵の空域を飛行させられて丸腰の飛行機で飛行中に撃墜されて死亡します。

 部隊長の死後、佐々木伍長は何度も特攻出撃し戦艦を体当たりせずに爆弾を投下します。撃沈

させても、生きて帰ってくることが将校達の逆鱗に触れて、「貴様は特攻隊だ!のこのこ帰って

くるな!死んでこい!」と言われます。特攻に出撃したという名簿を天皇陛下へ上聞をして佐々

木伍長は軍神となったという発表をした以上、生きていては困る。という上層部の意図なのです。

しかしそれでも佐々木友次さんは9回出撃し、9回生還するのです。

 鴻上さんは、佐々木友次さんへの5回のインタビューを柱に、佐々木さんの9回の出撃はどのよ

うなものであったのか、陸軍、海軍における特攻の場合と、戦争の中期と戦争の末期での特攻、

沖縄での特攻、それぞれの状況での「特攻」がどのようなものであったのかを、資料や証言を当

たり書かれています。




■『神風特攻隊』の物語によって作られた偽りのイメージ


 鴻上さんは特攻とはなんだったのか?という問いへの総括をしようとする時、それを『命令し

た側』と、それを『命令される側』のふたつの視点をごちゃ混ぜにしては明らかにならないと指

摘します。

というのは、これまでの特攻隊というものへの世の中の理解は、戦後にベストセラーになった

『神風特攻隊』によって広く知れ渡りました。大西瀧治郎中将( 特攻の生みの親と言われた人物

で終戦の翌日8月16日に自決します。54歳 )の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力

平が書いたもので、それは「命令した側」の視点で描かれたものだからです。

『神風特攻隊』は、英語にも翻訳されて、世界に「積極的に自分から志願し、祖国のためににっ

こりと微笑んで出撃した『カミカゼ』」という今も根強いイメージを広めました。

鴻上さんは、それは徹底的に『命令した側』の視点で世界的に広められたイメージであることを

明らかにします。

自分ごときの筆力ではまったく足りないので、少し長いですが引用させていただきます。


以下、引用↓



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『神風特別攻撃隊』の欺瞞


 初めて隊員たちに特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。

「集合を命じて、戦局と長官の決心を説明したところ、感激に興奮して全員双手をあげての賛成

である。かれらは若い(中略)小さなランプひとつの薄暗い従兵室で、キラキラと目を光らして立

派な決意を示していた顔つきは、今でも私の眼底に残って忘れられない。(中略)これは若い血

潮に燃えるかれらに、自然に湧きあがったはげしい決意だったのである」

ですが、生き残った浜崎勇一飛曹の証言によれば、23人の搭乗員たちは、あまりの急な話に驚き、

言葉も発せずに棒立ちになっていました。

「いいか、お前達は突っ込んでくれるか!」

玉井副官は叫びましたが、隊員たちには戦闘機乗りとしてのプライドがありました。

反応が鈍いのに苛立った玉井副官は、突然、大声で、

「行くのか行かんのか!」と叫びました。その声に、反射的に総員が手を挙げたのです。

それは、意志というより、突然の雷に対する条件反射でした。

玉井副官は、その風景を見て、「よし、判った。志願をした以上、余計なことを考えるな」と答

えました。全員が「自発的に志願」した瞬間でした(『敷島隊 死への五日間』根本順善 光人

社NF文庫)。

 それ以降の隊員選びでは、中島飛行長は、封筒と紙を配り、志願するものは等級氏名を、志願

せぬものは白紙を封筒に入れて、提出させたと戦後、答えました。

「志願、不志願は私のほかはだれにもわからない」ためにです。

けれどやはり生き残った隊員は、そんな手順を踏まず、実際は、

「志願制をとるから、志願するものは一歩前へ」というものだったと証言しています。

中島だけにわかるのではなく、まったくの逆です。結果、全員が一歩前に出たと言います」

 当事者の隊員がこう証言していても、中島は、戦後もずっと当人達の意志を紙に書かせたと主

張し続け、航空自衛隊に入り、第一航空団司令などの要職を経て、空将補まで上り詰めました。



『命令した側』の物語


 『神風特別攻撃隊』は、徹底して特攻を「命令した側」の視点に立って描いています。

特攻の志願者は後をたたず、全員が出撃を熱望するのです。

酒の席に招かれれば、「私はいつ出撃するのですか、はやくしてくれないと困ります」と迫られ、

特攻隊員を指名する前には中島のズボンの腰を引っ張りながら「飛行長、ぜひ自分をやってくだ

さい!」と叫ばれ、夜には自室に志願者が出撃させて欲しいと日参してくるのです。

隊員達の状態は次のように描写されています。

「出発すれば決してかえってくることのない特攻隊員となった当座の心理は、しばらくは本能的

な生への執着と、それを乗り越えようとする無我の心がからみあって、かなり動揺するようであ

る。しかし時間の長短こそあれ、やがてはそれを克服して、心にあるものを把握し、状態にもど

っていく。

こうなると何事に対してもにこにことした温顔と、美しく澄んだなかにもどことなく底光りする

眼光がそなわるようになる。これが悟りの境地というのであろうか。かれらのすることはなんと

なく楽しげで、おだやかな親しみを他のものに感じさせる」

 死ぬことが前提の命令を出す指揮官が「動揺するようである」という。どこか他人事と思われ

る推定の形で書くことに、僕は強烈な違和感を覚えます。

 猪口、中島というリーダーは、部下の内面に一歩も踏み込んでいないと感じられるのです。

どれぐらい動揺しているのか、本心はどうなのか、動揺に耐えられるのか。優秀なリーダーなら、

部下と話し、部下を知り、部下の状態を把握することは当然だと考えます。

 けれど特攻を「命令された側」の内面に踏み込む記述はないのです。それは、今読み返してみ

ると、異常に感じます。

隊員の内面に踏み込んだ描写をせず、関大尉の場合のように嘘を書く理由はひとつしか考えられ

ません。(木村注:鴻上さんは前段で、関行男大尉が海軍で第一回の特攻隊長に指名された時の

「神風特攻隊」のなかで描かれた様子(積極的な志願)が嘘であることを、後に僧侶となった元

副官の証言から明らかにしています)

 特攻隊の全員が志願なら、自分達上官の責任は免除されます。上官が止めても、「私を」「私

を」と志願が殺到したなら、上官には「特攻の責任」は生まれません。が、命令ならば、戦後、

おめおめと生き延びていたことを責められてしまいます。多くの上官は、「私もあとに続く」と

か「最後の一機で私も特攻する」と演説していたのです。

大西瀧次郎中将のように、戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどが「すべての特攻は志願だ

った」と証言します。私の意志と責任とはなんの関係もないのだと。


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↑以上引用


 特攻隊というものが、志願兵を募って組織されたものであるかのように広く伝わっています。

しかし実際には『強者の圧倒的な無言の圧力によって、実際には「命令」(もしくは、年若い少

年兵であればたやすく『洗脳」できた)でした。

さらに、鴻上さんは「僕が「命令した側」に対して理解できないのは、フィリピン戦から沖縄戦

にかけて「特攻の効果」が著しく逓減したことを知りながら、特攻を続けたことです。」と書い

ています。アメリカ軍が特攻に対して鉄壁の防衛体制を完成させて特攻機は次々と撃ち落される

のです。それなのに「「命令する側」は同じ命令を出し続けたのです。それも劣化した飛行機で、

経験の浅い操縦士達に。」

 後段に、何故、効果のない特攻を続けたのか?という問いに対しての鴻上さんの多くの資料の

調査に基づいた考察がありますが、ここではこれ以上触れません。気になる方はお読みください。



■戦後70年以上経って


 鴻上さんは、

「特攻はとてもナイーブで複雑な問題」

「戦後72年経って、語る方が次々といなくなり、貴重な肉声が失われていくことでもありますが、

同時に冷静に「特攻」を考える時期が来たということでもあります。10年前だと、僕のような戦

争未体験者が、自分の判断で「特攻」について文章を書くことはできなかったんじゃないかと思

います。佐々木友次さんも、まだ答えてはくれなかったのではないかと思います」

「関係者が生きている生々しい議論ではないことが、歴史の中に位置づける日本文化と戦争の研

究になるのではないかと思うのです」

と書かれています。



 この本が話題になったためでしょうか(僕の購入した版は、第十六刷!です)、NHKで特集番組

が作られました(リアルタイムでは見ていません、Youtube での視聴です)が、番組での最後に

鴻上さんが次のように仰っています。



「佐々木友次さんという存在を日本人が知ることは、この国のひとつの希望になると思っていま

す。戦後70年以上経っても実は友次さんが直面した不合理や苦しみの構造は実はあんまり変わって

いないのではないかと、僕は思っています。

その構造に負けそうになる時に、佐々木友次さんという方がいて、ここまで頑張った。というこ

とを知ることは、戦うときのひとつの勇気になるのではないか。という様に思っています。」



 鴻上さんの言うように、我々が生きているこの今という時代の政治や社会は、ニュース(モリ

カケ問題やブラック企業にみる労働問題等)を見てみれば、不合理や苦しみは構造的は変わって

いないようです。



 「水に流す」は、良くも悪くも日本的な特質かもしれません。しかし、忘れてはいけないこと

は山ほどあります。全ての過去を知ることは出来ないけれども、すべての記録や記憶を流してし

まってすっかり忘れてしまっては、また同じ過ちを繰り返すのだろうと。



     もうすぐ73回目の終戦記念日     2018年 8月



             

     虫に食われたりしたけれども、今年もゴーヤの緑のカーテンが出来た


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