指圧学校のこと 〜40過ぎて学校へいく その一〜




 指圧学校のこと その一



 40の時に自営業者の運送屋をやりながら後楽園にある日本指圧学校という日本で唯一

の指圧専門学校の夜学部に通いはじめた。3年間通って卒業し国家試験を経て指圧師の資

格を得た。

サラリーマンを辞めて自営業の運送屋になり2年足らずで今度は「指圧師になる」、など

と言い出したのだから、カミさんは小学生になったばかりの息子を抱えて途方にくれたに

違いない。そのうえ、サラリーマンの退職金も使い果たした上に指圧学校の入学金授業料

などで借金まで負ったのだから大変な不安を押し付けた。



 先日、定年を迎えた中学校時代の友人と会った。「家族のために懸命に働いてきた」な

どと胸を張る彼の言葉を聞いて、自分は「お前は偉いなあ、俺は家族より自分の事を優先

したんだ、そんな言葉は口が裂けても言えないよ」と返すのである。「でもサラリーマン

辞めてからこっち、カミさんにはクサイ顔(ツラ)はあんまり見せていない筈だが」と付

け加えて多少見栄を張るのである。(カミさんとしては異論があるかもしれない)

雨漏りのする1Kのアパートで内職やクリーニング屋で仕事(夏場は過酷な労働)などを

しつつ20年近くの間、見事に愚痴のひとつも言わなかったカミさんに対しては後ろめたい

気持ちを持っている。



 運送仕事と夜学の両立を3年間やり通す事ができるかどうかは自信がなかった。仕事を

終えて後楽園にある学校の授業開始の夕6時に間に合うかどうかは、その日の仕事量や交

通の渋滞次第であるから、綱渡りのような日々の3年間になる事は分かっていた。


学校の授業を終えて夜の11過ぎに帰って晩飯、風呂、翌日は4時過ぎには起きて仕事に向

かう毎日。睡魔に襲われて頬っぺたをつねりながら、後楽園の学校の授業に間に合うか、

ハラハラしながら車を転がした。

運送の仕事と学校へ通うこととの両立ができなければ職を変えてでも、何としてもこの資

格を取ろうと決心していた。

仕事が長引いて授業に遅刻することも多かったが、なんとか綱渡りの3年間を過ごした。

卒業して国家試験に合格できたのは、カミさんを含めて何らかの『他力の風』が自分に吹

いてくれたからである。



 学校に通い始めてからの何回目かの授業の時に、ある先生が「指圧というものは基本的

には気持ちの良いもので、結局のところ幸せを感じるものでなくてはいけない」という話

をしてくれた。それを聞いた時の感動は忘れない。サラリーマンを辞めた時に、これから

は「安定や金とかいうものと『引き換え』に気分のいい人生を歩いて行こう」という決意

をした。だから「指圧は気分のいいものだ」という言葉を聞いたときに自分の選んだ道は

間違っていない、と確信した。その思いは今現在も変わっていない。そして実際に、『金

や安定と引き換えに気分のいい人生』を得ているつもりでいる。

世の中には、金も安定も得てさらに気分良く生きている人達がいるようにも見えるが、自

分の場合は、何かを犠牲にしているからこそ何かを得ているのだ、というような思い込み

があるのである。



 もちろん、いくらかの金を稼がなければ生きてはいけないのだが、サラリーマンをやめ

て不安定な自営業者になってからも何とか食うに困らない程度に稼ぎながら、気分の悪く

ない人生をここまで生きてこれたのは、まったくキセキとしか言いようがない。



前置きが長くなった。本題の指圧学校のことはまた今度に、






    

    武蔵野線ホームから  いつもここから空を眺めている






 ・・・わたしはなにかを失ったとき、

 なにかを得てきた、

 ただそうして生きてきたのだ・・・


    Both Sides Now(邦題 「青春の光と影」 ジョニー・ミッチェル、 1968)





                           2018年 11月


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