イイ話
2005年   7月
指圧師 木 村  浩

イイ話 

 自分の気持ちにずっと引っかかっていたニュースがあります。少し前の事ですが、俳

優のHさんが映画の出演料の要求に際して脅迫行為を行い、有罪判決を受けた。という

話です。僕はこのニュースを新聞の片隅に見つけた時に、とっさに「イイ話」だと感じ

ました。事件とその有罪判決はどう考えてもバッドニュースですが、どういう事かとい

うと、その俳優さんはこの事件のずっと以前に四国巡礼お遍路さんの旅をやり遂げた、

という話を聞いていたからです。

これこそが、「生きていく」ということなのではないか?その見本をその俳優さんは示

してくれたのではないかと、とっさに感じたのです。


 キツイ四国巡礼お遍路さんの旅をやり遂げたような人でも、それをやり遂げた時の、

タフで美しい気持ちのまま生きていくことは難しい。人生経験を重ね、つらい修行を積

んで悟りを得ても、仕事をし、銭を稼ぎ、メシを喰らい、世の中と渡り合って生きてい

くのは、思うにまかせぬことの連続なのではないか、それが、「生きていく」という事

なのではないか?

思うにまかせぬ人生を生きざるをえない個々の人間は、いくら悟りを得ても、悩み、間

違いをおこし、つまづいてしまうものなのではないか?


個々の人間に、ひいては自分自身にさえも、統一された一つのイメージ、一貫性、整合

性を固定してしまうと、人間についての認識を見誤るのではないか?そんな気がするの

です。

もちろん、だからといって間違いを犯してしまった以上、そのツケは払わなければなら

ない。それが社会の中で生きていくためのルールです。しかし人間をあるイメージで固

定し、そのイメージでの一貫性、整合性を求めると、人間についての理解をまちがえる

のではないか、という気がするのです。


 ニュースでは、お遍路の旅の途中でその俳優のHさんに出会った人が、何故あの人が

そんな事件を起こしたのか分からない、というコメントを載せていました。お遍路さん

の旅と犯罪者とのイメージのギャップが、ニュースの価値を高めたのでしょう。(ニ

ュースはいつも、固定されたイメージが裏切られ、破壊される「ネタ」が大好きです、

僕ら視聴者はそのネタに野次馬根性を刺激される、という訳です)少年犯罪のニュース

の時にも、「ごく普通の少年でした、それが何故?」というコメントがよく聞かれます。

僕らはいつも、人をある固定したイメージで捉えがちです。そのイメージと事件のギャ

ップが大きければ大きいほど、ワイドショーのネタとしての価値が大きくなるのでしょ

う。しかし、人間を固定した(あるいは期待する)イメージで捉えてしまって、そこで

安心してしまってよいのか?という思いがあります。


 告白しますが、実は僕自身、一貫性、整合性をもつ人間として成立させたいと考える

のですが、なかなかできません。(48才にもなって!?)僕は後悔だらけの人生を送

っています。あんな事をするべきではなかった、あんな事を言うべきではなかった、あ

の時こうしていれば・・・そんな事の繰り返しを未だにやっている、本当に情けない、

恥ずかしくてここで全てをさらけ出す事はとてもできません。自分は決して完全な一貫

性、整合性などもっていない、それを認めた上でないと僕はまともに生きていく自信が

ないのです。

 キツイ四国巡礼のお遍路さんの旅をやり遂げた俳優のHさんが、映画の出演料の要求

に、脅迫行為を行って有罪判決を受けた事件は、人間についての認識、ひいては自分自

身を認識することに、すこしだけ影響を受けた「イイ話」に思えた、という訳です。

                             2005年  7月


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