続・アトムの哀しみ
2006年   9月
指圧師 木 村  浩



父親の白血病のこと

 父親は僕が小学校を卒業した春に亡くなりました。父親が急性白血病でもう何日もも

たないと知らされた時に、僕は子供心にも、この数日間で医学が白血病を一瞬にして治

してしまう薬をつくって欲しい、それまでなんとか父親の命がもちこたえて欲しい、と

本気で願いました。昭和30年代、40年代は科学の急速な進歩が人間の悩みをどんど

ん解決していくだろう、という雰囲気があったように思います。子供であった自分もそ

んな時代の雰囲気を感じて父親の死を目前にしてそれを本気で願ったのでしょう。しか

し、その時点での急性の白血病は、金持ちであろうが有名人であろうが、あっという間

に命を落とす不治の病でした。白血病で命を落とすことは不幸ではあるけれども、受け

入れざるを得ない不幸でした。医学の進歩した現代であれば、父親は少なくとももう少

し長く生きられたのだと思います。


不幸の質

 かつて結核は死を意味する不治の病でした。戦後アメリカからストマイ(ストレプト

マイシン)という新薬が入ってきて、結核は治る病になりました。当時、その新薬を手

に入れてなんとか助かったという話や、高額でとても手に入れることが叶わなかったた

めに自分の子供をみすみす死なせてしまった、という話をドラマで見たり親戚の昔話に

聞いたことがあります。そのことを考えると、どんな地位、名誉を得ていても、どんな

にお金持ちであっても、結核という病では命を落とすしかない、と誰もが受け入れざる

をえない、言ってみれば「シンプルな不幸」だったのが、ストマイの登場によって、そ

れを手に入れることができるかどうかで明暗が分かれる、いってみれば「不幸の質」が

変化して、結核という病は「複雑な不幸」になってしまったのではないかと思うのです。

ストマイを手に入れることができなかったばかりに愛する人を結核で失ってしまった不

幸は、単純には受け入れがたい「より大きな不幸」として感じたのだろうと想像します。

もちろん医学(科学)の発達とはそういったものだし、いつだってやむを得ない不幸と、

受け入れがたい不幸は今もこれからも存在するにちがいない、しかし、同じようにサイ

ボーグ技術を始めとする最先端医療についても、僕達はそれを手にする事ができない時

「受け入れがたい、より大きな不幸」を感じるようになってしまうのでしょうか? す

でに現在、移植医療では、そういった受け入れがたい、より大きな不幸を感じている患

者やその家族は大勢います。何故、移植を受けられないのか? さらに提供者のほうで

も、自分はドナー登録すべきなのか?・・・ 簡単には答えの出ない問題です。それは

多くの人にとって、科学がすっきりと解決してくれる問題ではないのだろう、という気

がします。

以前、脳死移植(NHK出版 発行1992.4.30)という本を読みました。胸が苦しくなるよ

うな気持ちで読みました。普段意識せずに過ごしていること、科学・政治・宗教・経

済・法律・家族の問題・愛の問題、言ってみれば、生きる、ということをどのように考

えるか? という問いかけでした。


科学が一般化できないものを扱うのは一種の矛盾である

 医学の進歩は人間から死を遠ざけようとする方向で進んでいます。すべての人間(人

類?)がそれを願っているのだ、という前提で。その進歩の方向性こそ唯一の価値とし

て進んでいるようにも見えます。医学の使命はそうかもしれない。しかし「医療」を受

ける僕らは、本当にそれだけを願っていて良いのか? という疑問があります。解剖学

者の養老孟司さんは、どこかで次のように書いていらっしゃいました。 「・・・個人

差というものは一般化できないものをいう、科学が一般化できないものを扱うのは一種

の矛盾である。だから科学としての医学と個人を扱うものとしての医学は年中モメ

る・・・」と、


 すべての人が最先端の医療を受けることがよいのか?遺伝子治療や臓器移植、サイ

ボーグ技術がひとりひとり全ての人を幸せにする訳ではないのだろうと思うのです。

科学としての医学はともかくとして、実際の医療としてはいろいろな方向性があるのだ

ろうという気がします。これは時々心をよぎることですが、たとえば、「治す」ための

医療、子供のための医療、働きざかりの人のための医療、高齢者のための医療、末期の

人のための医療、お金のある人のための医療、お金のない人のための医療、痛みをとる

ための医療、「生きる」ための医療・・・ひとりひとりの生き方の選択としての医療が

あっていいのではないか? その選択をするには、それぞれの「命をまっとうする」、

ということがどういうことか、僕ら自身が思いをめぐらしていなければならないのでし

ょう。サイボーグ技術に代表される現代医学、ひろくは科学の進歩は、僕らに命という

ものについて問いかけているような気がするのです。




 以前、科学をいつも気にかけていた漫画家、手塚治虫さんのことを書きました。その

とき書いたことの繰り返しになりますが、

 僕は、科学にはいつもワクワクした気持ちを持ってしまう。でも、たぶん科学が全て

を解決してくれる日はやってこない。 『 生命を大事にしよう! 』  科学技術が

発展すればするほどに、「いつも新しく」て、「もっと難しい」テーマであり続けるに

ちがいありません。


                              2006年 9月




 ずいぶん前に「アトムの哀しみ」というのを書きました。(書いたといっても大半は 手塚治虫さんの著作からの引用です) その時、書き足りないという気持ちをずっと引 きずっていて、その続きをいつか書いておこうと思っていました。それでタイトルを 「続・アトムの哀しみ」にした訳です。
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