貝原益軒「養生訓」の前提
2007年 4月
指圧師 木 村 浩
欲を知る、というクスリ
貝原益軒という江戸時代の儒学者の書いた「養生訓」(自由訳、工藤美代子、洋泉
社)というのを読んでいるところです。前半まで読んだところですが、説教話のオンパ
レードで、少しばかりウンザリとしないこともありません。乱暴に一言で要約すれば、
「飲食欲、好色欲、睡眠欲、喋り欲等々、欲は、コントロールして小出しにせよ。それ
が健康で長生きへの道だ」と言っています。
貝原益軒は養生訓でくどいほど欲のことをいうのです。読み進むほどに、欲まみれの自
分の生活をこれでもかと指摘され、こんな自分が健康に長生きなどできる筈がないと、
読みながら僕は気が滅入るのですが、これがなかなかいいクスリになるようです。
欲という前提
僕としては、自分の手の及ばぬところの問題(例えば、政治や環境、思いにまかせぬ
人間関係)抜きに、個人の欲だけをコントロールしても健康、健全は手に入れられない。
と考えているところですが、考えてみれば、健康に限らず、戦争や政治、環境の問題も、
人間の欲をどうするか? という問題に帰結するように思います。しかし、歴史やニ
ュースは人間から欲を切り離すことはできない、と証明しています。であるなら、欲は
無くせない、という「前提」に立つほうが建設的ではないか?
貝原益軒は、欲が人間に害をもたらすと同時に、そこから離れがたいのが人間だ、とい
う「前提」にたって養生訓を書いたのでしょう。
理想を前提としない
僕の仕事である指圧は、「健康、健全という理想」を実現する素晴らしい技術である
ことは間違いありません。(ちなみに益軒は、全身の按摩、指圧が気のめぐりをよくす
る。というくだりを書いています)しかし、養生訓を読めば、ひとつの要素が健康のす
べてを保障する訳ではないとわかります。そういう前提に立ちながら、指圧という業に
向きあうとき、不意に大きな喜びに出会うことがあるのです。
そんな観点から考えを拡げていくと、健康に限らず、家庭、仕事、人間関係、社会のあ
りよう等々、すべからく、理想は容易には手に入らない、という前提、もしくは覚悟を
持つ方がよいのだろう。などと考えるのです。
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部屋の窓が開いているので「寒い」と言うと、カミさんは「風邪でもひいたのか」と
言う、「窓が開いているから寒いんだ」と言うと、「開けたのは自分でしょう」と言う、
「それはそうだが寒いと言っているんだから窓を閉める、という気がきかないのか」と
言うと、「最初から、窓を閉めて下さいと言えばいいでしょう、自分で閉めれば」と言
う、「アンタのほうが近いんだから・・・・・
紛争は、「わかりあえる」という前提からいつも生じるのである。
2007年 4月
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