ブレーキの文化
2008年  4月
指圧師 木 村  浩



 昨日のニュースに注目しました。名古屋高裁の<空自イラク派遣、違憲>のニュー

スです。

慰謝料の訴えは棄却され、原告が敗訴のような形になりましたが、結果的には、原告

は 「裁判に負けて、本質的に勝ち」、国は「裁判に勝ち、本質的に負けた」という

格好になりました。こういった裁判の進め方をした原告の知恵に関心しました。そし

て、この裁判の裁判長は判決直前に退官しているとの報道をみて、最後の仕事にいろ

いろな思いを込めたのではないか? と想像し、印象を深くしました。

 この事について、東京新聞4/18(金)の朝刊のコラムで次のように書かれているの

を読みました。



 大型トラックの脱落した車輪が運転席を直撃した事故で亡くなられたバスの運転手

さんは、乗客の安全を守るために最後までハンドルを握り、ブレーキを踏み込んでい

た。という話に続いて、・・・▼日本国憲法、ことに九条は、この国が二度と戦争へ

と暴走しないよう設けられたブレーキだ。それがあるから、国民も安んじて「乗客」

になっていられる。だが、だんだんに、なし崩し的な骨抜きの速度が増していたのも

確か▼そこに、今回の判断だ。裁判長は判決直前に退官している。このブレーキも裁

判官人生の最後に踏み込まれたのである。



 とありました。ところで日本の軍事力は世界でも10番以内に入るそうです。外国

の人に憲法九条のことを説明してもこの事実を知ったらワケが分からず頭が混乱する

に違いありません。まして子供達にどう説明するのか? こういった矛盾を訂正する

ために九条のほうをイジルのか? それとも、九条は変えずに自衛隊の存在そのもの

を変えていくのか? さらには、グローバルスタンダードという世界標準の日本に変

えるのか? いまある日本独自の九条の価値を世界に発信するのか?

 僕は、憲法九条は日本人に限らず、人類、人間の理想であるという考えです。

しかし、すでに自衛隊とそれに関わる産業が多くの人々の生活を支えているという実

態があるでしょう。 憲法九条と矛盾しているから明日からこれを無くしてしまえ、

というのはあまりにも無理があるに違いありません。 僕は、子供達には、矛盾した

状況を正直に告白し、しかし、大人として理想のために努力をする。という姿勢を見

せるべきだと思うのです。 そうして、アクセルを踏み続けた事で拡大した矛盾に対

して、上手にブレーキをかけながら、今ある九条と矛盾しない日本に向かって欲しい、

と願うのです。




 今ほどブレーキが必要な時代はないかもしれません。しかし、人間はブレーキの事

を考えるのがヘタなのではないか? ブレーキの文化を育てきれていないのではない

か? という気がするのです。 そして、相変わらずアクセルを踏み込む話ばかりが

幅をきかせているような気がするのです。

 アクセルを踏み込むときの快感は車を運転する者なら誰でも知っています。それは

極めて容易に手にする事ができる快感です。スピードを出す事は、魅力的で、容易で、

しかも危険なのです。それに対して、ブレーキを踏み込むのは、自己抑制と、危険を

予知する想像力と、技術が要求される難しい事なのです。 アクセルを踏むのはサル

でもできる。 しかしコントロールしながらブレーキをかけるのは「人間」にしかで

きないことではないでしょうか?



 人間だからこそ、恐ろしいスピードを出せる「乗り物」を作りました。しかし、僕

たちは、アクセルを踏み続けるだけでなく、急ブレーキが必要になる前に、上手にブ

レーキをかける事ができるのでしょうか?

                            2008年 4月




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