今この場所にいる幸運を 



 車を所有しない(できない)生活になってから、自転車、バス、電車を使っている。

先日久しぶりに満員電車に乗った。

周囲を見ると学生風の若者をのぞいて、ほとんどの男達は背広を着ている、自分も仕事に

行く服装であったが、彼らに比べれば、ずいぶんラフである。もちろんネクタイなどして

いない。思えば、背広にネクタイといういでたちはここ何年もしていない。

電車の中で背広姿の自分と同年輩か若い働き盛りの男達に囲まれて、ふと、自分は標準的

な人間ではないのかもしれない、という思いを覚えた。


自分という人間が極めて標準的な人間のつもりでいるが、毎日背広を着て、毎日当然のよ

うに仕事に精を出す彼らのあたりまえと、仕事が続けば神風のごときものを感じてしまう

自分のあたりまえとでは、ずいぶん違っているのではないかと、ふと思った。

振り返ってみれば、サラリーマンという生き方を辞めてから20年近くになろうとしてい

る。その20年という時間は、この電車の中にいる大多数の背広を着ている人達のそれと、

自分のそれとの違いにより、世の中の普通と自分の普通がすこしづつズレてきた20年と

いう年月だったのではないか、という気がしてしまったのである。


 なにかの申し込み書を書かねばならない時にたびたび感じるのだが、自分の社会的な位

置を記入する欄が必ずあるが、自営業者の欄は大抵端のほうに記入欄があり、そこには

「できれば素性のはっきりしている会社員の方々を対象とさせていただきたい」的なニュ

アンスがあるように思うのである。そういう場面では自分が少数派であることをいつもは

っきりと認識させられる。 カードを作ると便利ですよ、と店員さんに勧められて申し込

みをしたが、会社勤めでないことを理由に、拒否されたことがある。おそらく、会社組織

に比べ、「個人」を評価するのは面倒なのだろう。少数派として社会で生きていくという

ことは、こういうことなのだと感じた。



 日本人の就労人口の何%がサラリーマンなのだろうか。かつては「勤め人」という言葉

があった。今はその言葉は死語であろう。大多数が勤め人であろうから、言葉として日本

語から消えたのだろう。代わりに自営業者という少数派の呼称が生まれたのではないか。

世の中はいつの時代でも大多数の人間が支えている。少数派の自分も少しは社会の役に立

っているだろうとの自負は多少(ほんの少しだけど)もっているが、どんな時代でも、

大多数の人間が世の中を支えている。であれば、社会の基準や規範といったものは、その

大多数の人々の生活に根ざしたものになるのは当然のことではないか。もちろん少数を切

り捨てない、という社会をいかに作るかは人間の人間たるゆえんの仕事ではあるけれども、

やはり大多数の生活、感覚、感情というものが優先されることになるのはやむを得ないこ

とではないか。気に入らないことも色々あるが、大多数の考える当たり前、それが世の中

の「普通」というものを形作るのだろう。




 電車の中の大多数の背広姿の人びとは世の中の大黒柱であり、その多数派であればこそ

の恩恵というか幸福があるだろう、同時に多数派にとどまる必要があるゆえの不幸がある

だろう。かたや少数派には少数派であるがゆえの恩恵や幸福があるだろう、同時に少数派

であるがゆえの不幸があるのだろう。ならば、今この場所にいる幸運のほうを、少しだけ

大きく感じるようにしてやっていく方がよいかと。




     
武蔵野線から                         これから昼飯〜少数派の恩恵(笑)





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 脱サラしたばかりの当時は、サラリーマン的な生き方はくそくらえと思っていた。その

気負いがあったからハンドルを切ることができたのだが、次第にそんな気負いは自分の中

から消えていった。それがつまり20年という歳月だったのだろう。しかし、実のことを

いうと自営業者になってから4、5年はサラリーマン根性が抜けなかった。どういうことか

といえば、手にする金の区別がついていなかったような気がするのである。つまり、「給

料」と「稼ぎ」の区別とでもいったらいいのか、自分という個人が金を稼ぐ主体である、

というような自覚をなかなか持てなかったような気がするのである。そんなことでよく自

営業者としてやってこれたものかとあきれるほかないが、なんとかここまで生きてこれた

のは偶然・奇跡・良縁に恵まれたにすぎず、感謝するほかない。



              感謝は金がかからない     2012年 10月

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