健康という傲慢? 先日、武蔵野線の北朝霞駅構内で自分と同じ方向の電車に乗ろうとしていた白杖の方をサ ポートした。自分と同世代の男性で、自分が下車する駅までの間にいろいろ話をさせてもらっ た。 その方は、網膜色素変性症という遺伝性の強い病気で中年以降になって進行したとの事で、光 を感じる程度の視力は残っているという事だった。 少しでも光が感じられるのであれば、全盲の方よりは暮らしの不便という点ではいいのでは? と想像したが、話を聞くと、わずかに視力が残っている事で危険な場合もあるとの事だった。 電車のドアが開いているように思って乗ったつもりが、車両と車両の連結部に落ちたこともあ るという。想像するだに恐ろしい気持ちをおぼえた。 見えるという状態から少しずつ視力が落ちていくなら、いろいろな点で突然の失明よりはいい のですか、と問うと、少しずつ進行することによる辛さは、生活の不便だけでなく、精神的に も辛いことが色々とあった、という。 車の運転が出来なくなる、仕事が続けられなくなる、視野がどんどん狭くなり日常の危険が日 増しに増えてくる。といった事が実際の生活の不自由とともに、精神的に追いつめられる苦し みがあった、と話してくれた。 子供の頃からの全盲であれば、生活や仕事などへの適応は早い段階から可能となるが、途中失 明は心身ともに生きていく事への適応に困難がともなう。しかし、それぞれにあり一概に言う ことはできない。と教えてくれた。 自分が下車すべき駅に近づいて、別れ際に、「自分が同じことになったら、どのように生きて いったらよいか皆目見当がつきません。ありがとうございました」と返して、彼の降りる一駅 前で下車し、別れた。 その方と別れてからの帰り道に考えた。 自分は、当たり前に「見える」、ということになんの疑問ももっていない、そのことに感謝な どしていないし、その方たちの人生に思いをはせることもない。そのことをよくよく考えるな ら、見えるということ、さらにいえば、健康でいる、ということは、他者の苦しみに思いもか けず、 いい気になって感謝もせず、自分本位な傲慢な生き方をしている自分なのではないだ ろうか、と。 健康でいる、ということだけで、実は傲慢な自分を生きているのだろう、と。 今日の弁当/もやし、コロッケ60円、奈良漬け、カミサンの自家製梅干し ささやかなシアワセ、 ありがたきはヘイワ、 近頃のニュースには絶望ばかり、 平和なくして健康などないではないか 2015年1月