ニューヨークの人に会った /その二 ・「世間」と「社会」





 前回、ニューヨークに住んでいる方に会って話をさせていただいて、東京とニューヨークと

いう同じ大都会でも、人びとのコミュニケーションのとり方がずいぶんと違うのだなあ、と思

った訳ですが、 自分としては、ニューヨークから来た人の話を聞いていて、その方の言い分

(コミュニケーションを取ろうしないことに対しての苛立ち)は分かるような気がしました。

過密した東京の暮らしでは、できるだけ人と人との距離を取ろうとして、知らぬふりをするの

が我々の(東京に住む人の)社会のセンスなのかもしれません。 それは、近すぎる距離に暮

らす故の、人間関係をスムーズにさせるためのセンスかもしれないと思ったりしたのです。

けれども、その結果、無視したり、助け合ったりする事をごく自然な形でできなくなっていた

り、するのかも?などと思っていましたが、

そこで思い出したことがあります。

以前カミさんにもらった本のなかに書いてあったことです。そのことを書いておこうと思いま

す。


 その本の著者で演出家の鴻上さんは、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思いますが、NHK

で「クール・ジャパン」という番組をながくやっています。

日本(人)の素晴らしい所、外国(人)からみて特殊に見えるところなどを、日本に長く住む

外国人とおしゃべりしながら楽しく紹介している番組です。その番組を通していろいろに感じ

たことなどを書いている本です。

一部を、以下に引用させていただきますが、我々日本人のコミュニケーションのあり方が何に

よって影響を受けているのか? について一つの興味深い考察になっています。


        

 クール・ジャパン!? 外国人がみたニッポン 鴻上尚史 講談社現代新書



■クール・ジャパン!? 外国人がみたニッポン 鴻上尚史 講談社現代新書 より


ここから↓

世間と社会

  ・・・「世間」は日本独特のものです。

「世間」とは、あなたと人間的関係や利害関係のある人たちのことです。

対抗する概念は「社会」です。「社会」は、あなたと人間的な関係も利害関係もない人たちの

ことです。

ご近所や会社、学校、趣味の仲間は「世間」です。街で、偶然、肩が触れ合った相手は「社

会」です。日本人は、都会の雑踏で、肩が軽く当たったぐらいでは、いちいち、謝ったりしま

せん。相手が「社会」に生きる人だからです。ですが、もし、その相手が会社の同僚とか近所

の知り合いの場合は、態度を急変します。深く謝ったり、心配したり、微笑んだりします。相

手が「世間」に生きる人だからです。

  西洋では、もちろん、肩が軽く当たったら必ず声をかけます。軽い謝りの言葉です(そうし

ない人は通常の社会的に生きていない人、と見なされます)。

  欧米では「世間」と「社会」という分類がなく、すべてが「社会」です。声をかける相手と

かけない相手の区別がないのです。

前述したように、第四ラテラン公会議の告解の決定(※)などを通じて、キリスト教が強力に

なり、神以外の人々の持つ「強力なつながり・親密な集団」を消滅させたのです。人々は神の

前にすべて均質な「社会」に生きる人間として、組織されました。

  日本人は、駅で乳母車を一人で持ち上げて階段を昇ったり降りたりしている母親にたいして、

絶対といっていいぐらい「手伝いましょうか」という声をかけません。相手が「社会」に住む

人だからです。相手が知り合いなら、もちろん、無条件で声をかけます。相手が「世間」に住

む人だからです。

  欧米では、全員が「社会」に住む人なので、声をかける相手の区別がないのです。

欧米で子育てしている日本人女性が「欧米の方がどれだけ子育てが楽か」と、たまにブログに

書いていたりするのは、こういう点です。

  また日本に旅行に来た西洋人が、母親が一人、駅の階段で乳母車を抱えて昇っている風景を

みて「どうして?!日本人は優しくて思いやりのある国民じゃないのか。だから、震災の時に

暴動も起こらなかったのに。どうして誰も手伝わないんた?」と驚くことになるのです。

日本人は「世間」と「社会」という二つの空間に生きていると僕は思っています。メインは

「世間」です。「社会」に生きている時は、日本人はじつは、どんな風に振る舞えばいいのか、

よく分かっていないのです。乳母車を抱えて階段を降りている母親がどんなに大変そうに見え

ても、どう声をかけていいのか分からないのです。

  海外のパーティーのように、知らない者同士がいきなり出会い、話し始めて、友人になる、

ということは、なかなか日本人にはありません。日本人のパーティーでは、知り合いに紹介さ

れて、または名刺を交換して、お互いの歳を知り、お互いの立場を理解して、やっと友達にな

れるのです。

  海外で、外国人のパーティーに参加している時、突然、パーティーの主催者から日本人を紹

介されたりすると、日本人同士、じつに戸惑います。

  外国人に対しては、「you」という言い方ですんでいたのに、目の前の日本人に対して、ど

の程度の敬語で話せばいいのか混乱するのです。ぎこちなく会話しながら、お互いの名刺を交

換して、自分との社会的立場や年齢の上下関係を知って、やっと日本人は安心するのです。

  日本人はおもに「世間」に住んでいますが、それは、じつは中途半端に壊れた「世間」です。

江戸から明治、大正時代までの、充分に機能した「世間」ではありません。ここからの話に深

入りすることはできませんから、興味のある方はぜひ拙著『「空気」と「世間」』をお読みく

ださい・・・

↑
ここまで




  鴻上尚史さんは『「空気」と「世間」 』という本を別に書いているようです。そのうちに

手に入れてみたいと思っているところです。

  引用した部分だけ読むと、日本人はだめだ、というような流れでこの本が書かれているよ

うに感じる方もいるかもしれませんが、そんなことはありません。NHKのクール・ジャパンを

見た事がある方ならご存知でしょうが、この本でも番組でも、日本(人)がいかに素晴らしい

国であり、人びとであるかということを沢山紹介しています。

ところで、引用した文中に「ラテラノ公会議の告解」というのがありました。これについても

別のページで少しだけ鴻上さんが記述していますので以下に引用します。



ここから↓

・・・1215年、イタリアのローマで開かれた第四回ラテラノ公会議では、信者全員に年に一回

の告解を義務づける決定が下されました。1年に一回、「私は山の上から昇る朝日を見て、

神々しい、と思ってしまいました」というような「迷信」を感じたことを、正直に懺悔しなけ

ればいけない、ということをキリスト教が決めたのです。逆に言えば、それだけ、キリスト教

が力を持つようになり、人びとの内面を決定づけるようになった、ということです。

  その結果、「山そのものを崇め、愛する」という感覚がなくなったんじゃないかと僕は考え

るのです。山とか、滝、巨木など、人間になにかしらの存在感、つまり、威厳とか畏れ、神々

しさを感じさせるものは、なんらかの信仰が生まれます。それはキリスト教が最も禁じたもの

なのです。ですから、一神教の人たちは、やがて、「山という存在そのものを愛する」という

感覚をなくしていったのではないかと思うのです・・・


↑ここまで



  このことに象徴されるように、キリスト教は、神以外の「強力なつながり」を消滅させ、人

びとも、神の前では均質な「社会」に生きる人間として組織された。という話につながります。





  コミュニケーションの作法は、長い歴史の中で作られているもので、知らず知らずの内に

我々はその歴史に縛られ、強い影響を受けていることを意識することもないままに日々を過ご

しているのでしょう。

  ニューヨークに住む人の話から、自分のコミュニケーションはどうなのかと、色々なことを

考えたりしましたが、比較するものに出逢って、はじめて自分を知るということもあるのだろ

う、と思った次第です。
          




  荒川土手の夕焼  神々しさを感じる・・・  






自分の知らない世界の人と出逢うのは本当に楽しい
                                                               2016年  10月





追伸:先日、目の不自由な方が、雑踏の駅のホームで転落して電車に轢かれ亡くなった、とい

うニュースが報じられていました。

「世間」と「社会」の話と深い関係性があるように思います・・・




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