指圧という窓から
2007年 6月
指圧師 木 村 浩
あいかわらず運送屋と指圧師の間を行ったり来たりする毎日。
運送業の朝は三時半、遅くても四時半、指圧業の日はそれよりは少しだけゆっくり。
やるべき事があり、それ程大きな健康の問題を抱えることなく、自分なりの役割を感じな
がら、可もなく不可もなく、なんとか日々を暮らす。
一番の関心事は、仕事があり自分と家族の生活が成り立つこと。そのことを毎日のように
ありがたく思う。それは、平和とか幸せとかいうものの、大きな要素のひとつではないか。
そのことの有り難さに今頃になって気がつく自分の愚かさ。
しかしいっぽうで、漠然とした不安を感じることも。それは多分、日々のニュースを原
因としている不安。
ニュースに触れていると、視界のきかない霧の中に佇んでいるいるような不安定な時代に
生きているのを感じる。
自分ごときが時代をウレイてどうにかなる訳でもないけれども。
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日本では毎年3万人以上の自殺者がここ8年続いているという。イラク戦争では200
3年3月から06年末までの約4年間で推計3万人のイラク民間人の死者数だという。ひ
るがえって、日本国内では1年間だけで3万人が自ら死を選ぶ。つまり、戦争状態よりも
もっと過酷な状況が日本国内にあるということだろう。ナゼこんなに自殺者が多いのだろ
うか。この問題の大きさを僕らは認識しているか。
温暖化、エネルギー問題、ゴミ問題、オゾンホールの拡大、砂漠化、酸性雨、環境ホル
モン、異常気象、・・・環境問題はいよいよ猶予なき状況にあるという。人間はもっと豊
かにという欲望を満たしつつ、有効な環境対策を実行できるのだろうか。
スーパーには大量の食材が並んでいる。その一方で水や食料がなくて生命が危険にさら
されている国がある。スーパーの明るくて大きな食料品売り場でチラッと頭をかすめるの
は、そんな貧困にあえいでいる人々の豊かさを僕たちが奪っているのではないだろうか?
という疑問。
親殺し、子殺し、虐待のニュースに僕たちは慣れてしまった。こんなことがこれからも
続いていくのだろうか。この先、家族は夫婦、親子のより所として機能するのだろうか。
人間は同じ過ちを繰り返す。しかし科学技術はその過ちの結果をかつてなく重大なもの
にしてしまう。核技術、遺伝子操作、先端医療、サイボーグ技術・・・科学・医学の進歩
は人間を本当に救うのだろうか。
大昔から人間は宗教のことで争ってばかり。宗教で争うことを人間はいつまで続けるの
だろうか。
人間は戦争や戦争の準備をやめることができるのだろうか。
僕たちは、もっと質素でも構いませんと覚悟できるのだろうか。
自分は安楽に生き、安楽に死ぬことができるのだろうか。
息子や孫達は果たして健全・健康・安全・安心な人生を送ることができるのだろうか。
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戦争/平和、環境、政治、経済、科学/医学、宗教、家族、愛、いのち…ニュースはひ
とつひとつのことを関連付けずにバラバラに伝える。しかしそれらは互いに複雑に絡み合
っているのではないか。その関係性を僕らは感じているか?それぞれのニュースの解説を
それぞれの専門家にまかせて安心していればいいのだろうか?
日常でいっぱいイッパイの自分に時代や世界を把握できる筈もない。そんな能力を持ち
合わせていないからこそ日々を送ることができるのだろう。それでも時折、この時代に生
きている自分の足もとがおぼつかない気分を感じてしまう。
僕らはかつてないほど複雑でややこしい時代に生きている。ニュースはそれを示してい
るのではないだろうか。
演劇評論家の友人がいます。中日新聞に戦時中の特攻隊の青年達を描いた舞台の評論を
書いていました。「一般受けする題材ではないが、戦争という一つの時代と人々の想いを、
客が入らなくても、金にならなくても、伝えるべきこととする演劇人の情熱を感じた」と
書いています。
それを読んで思ったのは、役者は舞台という「場」もしくは「窓」を通して時代や世界を
感じ取るのだろうということです。対して自分はニュースや舞台の「客」としてしか時
代・世界を感じることしか出来ないのだろうか?と。それを感じ取る自分なりの場、窓を
もっているのかしらと。
戦争/平和、環境、政治、経済、科学/医学、宗教、家族、愛、いのち…これらをトー
タルに認識することは自分ごとき凡人にできる筈もありません。しかしフト思ったのは、
僕は指圧という世界を得た。「指圧という窓」からこれらを認識することができるんじゃ
ないか?場合によってはこれらの問題を自分なりにジャッジすることもできるかも?そん
なフトドキなことを思ったりするのです。
指圧という「窓」から、人という自然を、人に必要な環境を、人の生活を、人の愛を、
人のいのちのことを、ジャッジすることができるかも・・・
勘違いは多分にあるにしても、僕の不安は少しは和らいだような気がするのです。
ここまで読んだカミサンの感想
「皆それぞれの窓からアプローチするしかない・・・それぞれの窓からだからいろいろ食
い違うんだね。せめて窓から顔を出して お互いを確認できるようにしないとね」
うちのカミサンはいつもスルドイのである 2007年6月
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