風に吹かれてみたらどう?  





 彼は試験に受かったのだろうか。



 時々会う機会がある彼は30少し手前。いつも無口でクールで如何にも優秀な気配を漂わせて

いる若者。


 その日、いつものクールな彼とは別人のように落ち込んでいる様子を感じて、何かあったのか

と聞けば、何年もつき合ってきた彼女と破局したと言う。

仕事や私生活のことなどこれまで自ら決して語ることのなかった彼がぽつりぽつりと話すには、

彼女と一緒になるために、ある資格を取って今よりも高収入の仕事に就くことを目指して仕事を

しながら勉強をしているのだが、その試験目前で彼女と破局してしまった。何年もかけて準備し

てきたのに突然こんな事になって、何のために頑張ってきたのか分からくなった。試験の事など

手がつかないと途方にくれている。


 これまでの彼とは別人のような気配に、こちらが危機感を持ってしまった。

忙しく働いているうえ、さらにプライベートを犠牲にして難しい勉強にひとり黙々と取り組んで

きたストイックな日常を微塵も感じさせたことのない彼に尊敬の念を抱いたと同時に、自分など

よりずっと稼いでいるように見える彼が、何故、より高収入な仕事を求めなければならないの

か?と、疑問をもったのだが、実はその彼女はある障害を持っていて、これからの生活にはお金

が必要になる。そのために何年もかけて高収入を目指す準備を続けてきた。そして、その資格を

得るところまでもう一歩のところまで来ている。と話してくれた。

 これまで自分の事をあまり語らなかった青年が、自分にそんな悩みを打ち明けてくれたことに

少しばかりプレッシャーを感じた。



 人の苦しみに対して他人ができることなど、愚痴を聞いてあげることで『ガス抜き』を手伝う

くらいのことしかできないだろうと、日頃思っているけれども、この時、つい何か言ってやりた

くなった。それで思わず、「風に吹かれてみたらどうかな」 と言ってしまった。 彼は黙り込

んで、そのまま分かれたが、自分の意に反して余計なことを言ってしまった。と感じて少し後悔

した。



 数週間して彼と再会した。

彼は「この間はどうも」、と言ったのだが、こちらとしては余計な一言を言ってしまった、とい

う思いがあるので「つまらないことを言ってしまって申し訳ない」 と言ったのだが、「いいえ、

あの言葉で吹っ切れたんです。彼女とのことは仕方がありません。来月の試験に向けて追い込み

をかけています」という言葉をもらった。



     

     雨上がりの武蔵浦和駅ホームから





その後しばらく彼と会っていない。

いい風に吹かれているだろうか。



                 2017年  10月




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