身分相応  




  苦労して今の生活を手に入れた大金持ちの方と親しくさせていただいている。とても魅力的な

方で、特に贅沢三昧という生活ではないが、一、二年に一度奥さんと豪華客船の旅(よくテレビ

でやっている世界のお金持ちが乗るケタ外れなやつ!)などしている。


その方と何かの話しをしている時に「自分は、持ち合わせているものの範囲の中で生きていけれ

ばそれで良く、身分相応という言葉が好きです」と言ったことがある。その話をした頃からその

方とより仲良くなったように思う。


  そんな余裕があるくらいだから当然お金の苦労はないのだが、金を持っているが故の辛いこと、

嫌なことなどはあるらしい。断片的には話を聞かせてくれるのだが、自分のような持たざる者が

リアルに理解はできない(そういう意味では孤独なのかもしれない)。




  自分のことだが、『何かを得る時、何かを失っている。何かを失った時、何かを得ている』と

いう言葉を人生観のひとつとして、ソコソコの喜びとソコソコの苦労が丁度いい、と極めて大衆

的な小市民の人生を生きてきた。もしその言葉が真理であるとすれば、その方のお金の所有量の

大きさを考えた時、得たものの大きさと同時にそれ故に失っているものも自分のうかがい知れな

いものがあるのかもしれない、と思ったりするのである。



 金の事では世の中の大半の人々と同じように、「もう少しなんとかしたいなあ」と常日頃考え

ているのだが、持ち合わせの中でしか暮らしていけないのであれば、『身分相応』という言葉は

自分の規範として大事な事なのだと思っている。その言葉には「安心と安全と気分の良さ」を感

じる。しかしまた同時に「不安と危険と不愉快な気分」も時々は感じるのだが、その稜線をどち

らかといえば、「いいなぁ 」と思いながら歩いていければ、まあまあなのだろうと。





   

  いつもここからの鉄路と空を眺めている







 もっとも地球の裏側で戦争や飢餓に苦しんでいる人々を思えば、自分の不安と危険と不愉快の

 気分は取るに足らないものであることは間違いない。


                       2018年 3月-2







目次にもどる