ぼーっと生きていると人は、 




■ ぼーっと生きていると人は、


 去年の事。痛風の痛みで足を引きずってヨタヨタと朝の通勤ラッシュの混雑し

た中を歩いていた時に、雑踏の流れになれない事で周囲に迷惑をかけた。

その時に、いかにもジャマだ!という気配で舌打ちをされた。

もし杖でも突いていたのなら、「何か不自由があるのだろう」と暖かい目で見て

もらったのかもしれない。それとも、「満足に歩けないなら混雑した時間帯に出

歩くんじゃない!」という事で、やっぱり冷たい目で見られたのだろうか。



振り返って、自分のかつてを思いおこせば、混雑した駅のホームで多くの人の流

れを乱すような歩き方をしている人に対して、じゃまだなぁ、と思って舌打ちを

した事があった。

歳を取って若さを振り返る時、恥ずかしいと思う事はあまりにも多い。



雑踏の中では、自分は人に迷惑をかける少数派ではなくて、「流れに乗る事が出

来る」多数派の一員である事で、知ってか知らずか安心している。

そうして、「流れに乗ることの出来る大多数の自分」は流れに乗らない(乗れな

い)人々を普通でない「困った人々」と安易に決めつけている。

大多数の一部である事を背景として、「普通」とか「常識」とかは自分の側にあ

る!と。

そうして、普通であり、常識人である(その他大勢の)自分こそは、正義をジャ

ッジできる!なんて気持ちの底の方で思ってはいないか。



しかし、同時に、みんなと一緒である事の安心とは別に、唯一無二の存在だと思

えなければ、人はツライのではないか。

自分はこれが好きで、自分はこれが嫌いで、自分はこれが得意で、自分はこれが

苦手で、自分の身体はこんな不便があり、自分はコレを大切にして生きていきた

いと、何かしら他人とは違うのが自分で、そんな自分が出来るだけ自分らしく生

きたいのであれば、他人の(身体や精神の)個性を、出来る限り尊重しなければ

自分自身の個性も尊重されない、という事になりはしないか。自分の存在は多様

性が認められる中でなければ、保証されないのではないか。



スペインの思想家オルテガは大衆の事を『平均人』と呼んだという。


〜平均人は自分が持っている『規格』以外を認めない、あまつさえ叩くのである。

そして民主主義は平均人が主役になる。政治家はその代表者になる〜 と。


平均人が主役になりその代表が政治家になるのであれば・・・とどのつまり、痛

風の痛みで流れに乗れない自分になった時、自分は困った人の扱いになり、途端

に生きにくくなって、舌打ちをされる。

オルテガ流に言えば、大衆(平均人)が多様な価値と少数者と共存する事を考え

なければ自分が生きにくくなることになってしまう。




世界は狭くなり、その事で混沌としている。

人はこれまで経験した事の無いほどに、多様な世界に放り込まれているのではな

いか?その多様性を拒否して生きる事などすでに不可能な事態にまでカオスな状

況に至っているのだとしたら、人は新しいステージに立つ事に取り組まねばなら

ないのかもしれない。

「流れに乗る」ことが出来る自分は、流れに乗る事が出来ない自分を発見した時

に、生きにくさに直面してしまう。

多様性を受け入れる自分になる事は、生きやすい自分を担保する事なのだろう。

単にスローガンとしての、「お年寄りや病人に優しくしよう」、では肝心な所が

抜けてしまう。




映画評論家の町山智浩さんは、「民主主義は、少数派が多数派の奴隷になる王様

ゲームではありません。少数派の口を封じるのは全体主義です」と仰っている。






     ぼーっと生きていると、人は全体主義に組み込まれる?


                            2020年 お正月





  

   久しぶりに晴れ間が、 ^_^
   





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