コロナ -- 思考の限界から楽観主義に依りすがり現実から逃避する --  




新型コロナウイルスが自分に与えた事をずっと考えているけれども、自分の頭の中で整理

がつかない。

自分がコロナ禍から何を学んだのか? 喉元すぎて熱さを忘れてしまうような気がするの

である。


そんな時に、料理研究家であり、食を通して様々に活動と発言をする枝元なほみさんと、

藤原辰史さん(農業技術史、食の思想史、環境史、ドイツ現代史)の往復書簡が、「生活

と自治 7月号」に掲載されているのを読んだ。



  



その中で、藤原先生が「岩波新書80」というWEBサイトに緊急寄稿を書かれていて、その

タイトル〈藤原辰史:パンデミックを生きる指針--歴史研究のアプローチ〉に興味を覚え

て読ませていただいた。



「人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭

のぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。甚大な危機に接して、ほぼすべての人びとが

思考の限界に突き当たる。だから、楽観主義に依りすがり現実から逃避してしまう」



最初のこのつかみに、「ああ、コロナ禍で自分の感じていることだ」と思い、読ませてい

ただいた。


抜粋してここに引用させて頂きます。


引用元は以下です。


藤原辰史:パンデミックを生きる指針---歴史研究のアプローチ

https://www.iwanamishinsho80.com/post/pandemic



1、起こりうる事態を冷徹に考える


人間という頭でっかちな動物は、目の前の輪郭のはっきりした危機よりも、遠くの輪郭の

ぼやけた希望にすがりたくなる癖がある。


甚大な危機に接して、ほぼすべての人びとが思考の限界に突き当たる。だから、楽観主義

に依りすがり現実から逃避してしまう。日本は感染者と死亡者が少ない。日本は医療が発

達している。子どもや若い人はかかりにくい。1、2週間が拡大か制圧かの境目だ。2週間

後が瀬戸際だ。3週間後が分水嶺だ。一年もあれば五輪開催は大丈夫だ。100人に4人の中

には入らないだろう。そう思いたくなっても不思議ではない。希望はいつしか根拠のない

確信と成り果てる。


ペストの猛威、三十年戦争、リスボンの大震災、ナポレオン戦争、アイルランドのジャガ

イモ飢饉、コレラやペストや結核の蔓延、第一次世界大戦、スペイン風邪、ウクライナ飢

饉、第二次世界大戦、チェルノブイリ原発事故、東京電力の原発事故。世界史は生命の危

機であふれている。いずれにしても甚大な危機が到来したとき、現実の進行はいつも希望

を冷酷に打ち砕いてきた。とりわけ大本営発表にならされてきた日本では、為政者たちが

配信する安易な希望論や道徳論や精神論(撤退ではなく転進と表現するようなごまかしな

ど)が、人を酔わせて判断能力を鈍らせる安酒にすぎないことは、歴史的には常識である。



2、国に希望を託せるか


もしも私たちが所属する組織のリーダーが、とくに国家のリーダーがこれまで構成員に情

報を隠すことなく提示してきたならば、そのデータに基づいて構成員自身が行動を選ぶこ

ともできよう。

異論に対して寛容なリーダーであれば、より創造的な解決策を提案することもできるだろ

う。データを改竄したり部下に改竄を指示したりせず、きちんと後世に残す文書を尊重し、

歴史を重視する組織であれば、ひょっとして死ななくてもよかったはずの命を救えるかも

しれない。


自分の過ちを部下に押し付けて逃げ去るようなそんなリーダーが中枢にいない国であれば、

ウイルスとの戦いの最前線に立っている人たち、たとえば看護師や介護士や保育士や接客

業の不安を最大限除去することもできよう。

危機の状況にも臨機応変に記者の質問に対応し少数意見を弾圧しないリーダーを私たちが

選んでいれば、納得して人びとは行動を起こせる。

「人類の叡智」を磨くために、「有事」に全く役に立たない買い物をアメリカから強制さ

れるのではなく、研究教育予算に税金を費やすことを使命と考えてきた政府であれば、パ

ンデミックに対して少なくともマイナスにはならない科学的政策を提言できるだろう。

ところが、残念ながら日本政府は、あるいはそれに類する海外の政府は、これまでの私た

ちが述べてきた無数の批判に耳を閉ざしたまま、上記の条件を満たす努力をすべて怠って

きた。

そんな政府に希望を抱くことで救われる可能性は、『週刊文春』の3月26日号に掲載され

た「最後は下部のしっぽを切られる」「なんて世の中だ」という自死寸前の赤木俊夫さん

の震える手で書かれた文字群によって、また現在の国会での政府中枢の驚くべき緩慢な言

葉によっても、粉々に打ち砕かれている。


この政権がまだ45.5パーセントの支持率を得ているという驚異的な事実自体がさらに事態

を悪くしている(共同通信社世論調査。2020年3月28 日配信)。

その上、「緊急事態宣言」を出し、基本的人権を制限する権能を、よりにもよって国会は

この内閣に与えてしまった。

為政者が、国民の生命の保護という目的を超えて、自分の都合のよいようにこの手の宣言

を利用した事例は世界史にあふれている。

どれほどの愚鈍さを身につければ、この政府のもとで危機を迎えた事実を、楽観的に受け

止めることができるだろうか。



3、家庭に希望を託せるか


第二に、家庭。

国が頼りなければ、家庭に生死を決める重荷がのしかかってくる。家族ほど近くて頼れて

安心できる存在はない。「濃厚接触」は免れないから運命共同体とさえいえる。



そもそも、子どもにとって家庭は安全な存在だろうか。あるべきかどうかではない。そう

なのかどうか、である。日本は、七人に一人の子どもが貧困状態にある国である。経済状

況の差をここまで広げた政策のつけは、こういう危機の時代に回ってくる。私は、『給食

の歴史』(岩波新書、2019年)で、高度経済成長期でさえ給食で一日の重要な栄養をとっ

て食いつないできた子どもたちが多数いたことを書いた。まさに、現在は、子どもたちの

最後の生命線が絶たれている現状とさえいえるのだ。


たとえ、三食最低限のご飯が食べられている家庭でも、危険はまだ残っている。『クーリ

エジャポン』(3月29日配信)によると、「3月17日の外出禁止令以降、家庭内暴力が増加

した可能性があることを認めている。


普段は長時間一緒に滞在しない家族の成員が同じ屋根の下で過ごすことで、なんとなく気

まずい空気が流れている家は少なくないだろう。普段虐待を受けている子どもにとって、

家庭はますます逃げがたい牢獄となるだろう。子どもだけではない。配偶者、とくに夫の

家庭内暴力を受けてきた妻には、外出が難しいこの現状は文字通り牢獄にほかならない。


地域の活動の場所であるPTAも自治会もNPOも、飛沫感染が恐れられるなか、活発な援助に

手を出しにくい。子ども食堂も学校給食もほとんど閉鎖され、子どもたちの腹と心の寂し

さを誰も満たしてくれない。



4、スペイン風邪と新型コロナウイルス


新型コロナウイルスの活動が鎮静ではなく、拡散の方向に向かっているいま、希望的観測

から頼りうる指針を選別していくため参考にすべき歴史的事件は、SARSやエボラ出血熱よ

りも「スペイン風邪」、すなわち、スパニッシュ・インフルエンザだと私は考える。百年

前のパンデミックである。


アメリカを震源とするこのインフルエンザの災いは、戦争中の情報統制で中立国だったス

ペインからインフルエンザの情報が広まったため、スペイン人にとっては濡れ衣にほかな

らない名前が歴史の名称となった。1918年から1920年まで足掛け3年かけて、3度の流行を

繰り返し、世界中で少なく見積もっても4800万人、多く見積もって一億人の命を奪い(山

本太郎『感染症と文明??共生への道』岩波新書、2011年)、世界中の人びとを恐怖のどん

底に陥れた。そのわりに教科書でも諸歴史学会でもほとんど取り上げられなかった世界史

の一コマである。

どちらもウイルスが原因であり、どちらも国を選ばず、どちらも地球規模で、どちらも巨

大な船で人が集団感染して亡くなり、どちらも初動に失敗し、どちらもデマが飛び、どち

らも著名人が多数死に、どちらも発生当時の状況が似ている。


ただ、当時は、インフルエンザのウイルスを分離する技術が十分に確立されておらず、医

療技術的には現在の方が有利、地球人口が17億程度だった当時と、75億人まで増えた現在

とでは過去の方が有利だ。

新聞以外にSNSも含め多くのメディアが必要・不必要にかかわらず情報を大量に発信して

いるのも現在の特徴であり、正直、どちらに転ぶかわからない。百年前はWHOも存在しな

かったので、本来であれば現在の方が有利だと思いたいけれど、なかなかそう思いづらい

のは報道の通りである。


当時、アジアもヨーロッパも北米大陸にも、これまであり得ないほどの人の移動があった。

第一次世界大戦の真っ只中だったからである。すでに1918年の春からインフルエンザが流

行っていたアメリカから、多数の若い男たちが輸送船に乗ってヨーロッパにわたっていた。

換気が悪く、人口密度が高い船内でどんどん感染が広がり、健康そのものだった若者が

次々に死んでいった。


ヨーロッパにはアジアからも多くの人たちが労働者として雇われていた。植民地である仏

領インドシナからはフランスへ、インドやビルマからはイギリスへ、中国からは苦力が多

数ヨーロッパに上陸していた(東南アジアの第一次世界大戦については、早瀬晋三『マン

ダラ国家から国民国家へ。東南アジア史のなかの第一次世界大戦』人文書院、2012年)。

やがて、アジアにも感染は拡大し、日本でも約40万人前後が亡くなったと言われている。


ここ十年の人の移動の激しさは当時の比ではない。その最大の現象は昨今のオーバーツー

リズムである。かつての兵士はいまのツーリストである。船ではなく飛行機で動くツーリ

ストたちの動きは、頻度と量が桁違いだ。それが今回の特徴である。



5、スペイン風邪の教訓


スパニッシュ・インフルエンザの過去は、現在を生きる私たちに対して教訓を提示してい

る。クロスビー『史上最悪のインフルエンザ??忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、

みすず書房、2004年)を参考にしつつ、まとめてみたい。


第一に、感染症の流行は一回では終わらない可能性があること。スパニッシュ・インフル

エンザでは「舞い戻り」があり、三回の波があったこと。一回目は四ヶ月で世界を一周し

たこと。一回目よりも二回目が、致死率が高かったこと。新型コロナウイルスの場合も、

感染者の数が少なくなったとしても絶対に油断してはいけないこと。

ウイルスは変異をする。弱毒性のウイルスに対して淘汰圧が加われば、毒を強めたウイル

スが繁殖する可能性もある。なぜ、一回の波でこのパンデミックが終わると政治家やマス

コミが考えるのか私にはわからない。ちょっと現代史を勉強すれば分かる通り、来年の東

京五輪が開催できる保証はどこにもない。


第二に、体調が悪いと感じたとき、無理をしたり、無理をさせたりすることが、スパニッ

シュ・インフルエンザの蔓延をより広げ、より病状を悪化させたこと。

何より、軍隊組織に属する兵士たちの衛生状況や、異議申し立てができない状況を考えて

みるとわかる。過労死や自殺者さえも生み出す日本の職場の体質は、この点、マイナスに

しか働かない。


第三に、医療従事者に対するケアがおろそかになってはならない。

スパニッシュ・インフルエンザを生きのびた人たちの多くが、医師や看護師たちの献身的

な看病で助けられたと述懐している。目の前の患者の命がかかっている場合、これらの人

たちは、多少自分が無理しても助けようとすることが多いことは容易に想像できよう。し

かし、いうまでもなく、日本の看護師たちは低く定められた賃金のままで、体を張って最

前線でウイルスと戦っていることを忘れてはならない。世界現代史は一度だって看護師な

どのケアの従事者に借りを返したことはないのである。


第四に、政府が戦争遂行のために世界への情報提供を制限し、マスコミもそれにしたがっ

ていたこと。

これは、スパニッシュ・インフルエンザの爆発的流行を促進した大きな原因である。情報

の開示は素早い分析をもたらし、事前に感染要因を包囲することができる。


第五に、スパニッシュ・インフルエンザは、第一次世界大戦の死者数よりも多くの死者を

出したにもかかわらず、後年の歴史叙述からも、人びとの記憶からも消えてしまったこと。

それゆえに、歴史的な検証が十分になされなかったこと。新型コロナウイルスが収束した

後の世界でも同じことにならぬよう、きちんとデータを残し、歴史的に検証できるように

しなければならない。とくにスパニッシュ・インフルエンザがそうであったように、危機

脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増

えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生するのは目に見えている。だが、ウイルスに対す

る「勝利」はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建

設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから


第六に、政府も民衆も、しばしば感情によって理性が曇らされること。

百年前、興味深い事例があった。「合衆国公衆衛生局は、秋のパンデミック第二波の真っ

只中、ほかにやるべき大事なことが山ほどあったにもかかわらず、バイエル社のアスピリ

ン錠の検査をさせられていた」。これは、「1918年当時の反ドイツ感情の狂信的なまでの

高まり」が、変な噂、つまり、ドイツのバイエル社が製造していたアスピリンにインフル

エンザの病原菌が混ぜられて売られているという噂が広まっていたためである(クロス

ビー『前掲書』259頁)。

現在も、疑心暗鬼が人びとの心底に沈む差別意識を目覚めさせている。これまで世界が差

別ととことん戦ってきたならば、こんなときに「コロナウイルスをばら撒く中国人はお断

り」というような発言や欧米でのアジア人差別を減少させることができただろう。あるい

は、政治家たちがこのような差別意識から自由な人間だったら、きっと危機の時代でも、

人間としての最低限の品性を失うことはなかっただろう。そしてこの品性の喪失は、パン

デミック鎮静化のための国際的な協力を邪魔する。


第七に、アメリカでは清掃業者がインフルエンザにかかり、ゴミ収集車が動けなくなり、

町中にごみがたまったこと。

もちろん、それは都市の衛生状況を悪化させること。医療崩壊ももちろん避けたいが、清

掃崩壊も危険であること。


第八に、為政者や官僚にも感染者が増え、行政手続きが滞る可能性があること。

たとえば、当時のアメリカの大統領ウッドロウ・ウィルソンも感染者の一人である。彼が

英仏伊と四カ国対談の最中に三九・四度の発熱で倒れ、病院に入院している間、会議の流

れが大きく変わり、ドイツへの懲罰的なヴェルサイユ条約の方向性が決まってしまった。



6、クリオの審判

さらにいえば、新型コロナウイルスが鎮静化すれば危機が去ったと言うことはできない。

実は、本当に怖いのはウイルスではなく、ウイルスに怯える人間だ。

ドイツの首相アンゲラ・メルケルは3月18日の演説で、日本の首相とは異なり、基本的人

権を制限することの痛みと例外性を強調した。東ドイツ出身の彼女にとって、移動と旅行

の自由は苦労してやっと得たものだった(日本語訳は、Mikako Hayashi-Husel)。だが、

これが例外でありつづけるのかどうか、私は大いに疑問である。今回のパンデミックは人

びとの認識を大きく変えるだろう。人びとの不測の事態に対するリスクへの恐怖が高まり、

ビッグデータの保持と処理を背景とした個別生体管理型の権威国家や自国中心主義的なナ

ルシズム国家がモデルとなるかもしれない。ユヴァル・ノア・ハラリは新型コロナウイル

スの後は、E U理念の復活のチャンスになりうるという希望的観測を慎重に抽出している

が、私は上記の理由から、逆に価値が暴落する可能性も考えている(Yuval Noah Harari,

 In the Battle Against Coronavirus, Humanity Lacks Leadership, in: Time on 15 Ma

rch 2020. )。また、ハラリは、コロナウイルスの対応において、各国の遮断ではなく協

力を呼びかけており、それには全面的に賛成するが、それにしても自国中心主義に溺れる

国家が国際社会には溢れすぎている。こうして、世界の秩序と民主主義国家は本格的な衰

退を見せていくのかもしれない。すでにパンデミック以前から進行していたように。

または、ハラリは述べていないが、新型コロナウイルスを「滅菌」するための消毒サービ

スが流行して、恐怖鎮静化商品の市場価値が生み出され、人びとが、ただでさえ蔓延して

いた潔癖主義に取り憑かれ、人間にとって有用な細菌やウイルスまで絶滅の危機、それに

よる体内微生物相の弱体化、そして免疫系統への悪影響に晒されるかもしれない。


消毒文化の弊害については、さしあたり、マーティン・J・フレーザー『失われてゆく、

我々の内なる細菌』(山本太郎訳、みすず書房、2015年)が参考になるだろう。そうして、

ある特定のウイルスを体内に長年共生させ、他の病原菌から守るような状況になる可能性

を失っていくかもしれない。潔癖主義が人種主義と結びつくと、ナチスの事例に見られる

ようにさらに厄介である(H・P・ブロイエル『ナチ・ドイツ 清潔な帝国』大島かおり訳、

人文書院、1983年)。

このように、悪いことはいくらでも想像できる。しかし、世界史の住人たちは一度として、

危機の反省から、危機を繰り返さないための未来への指針を生み出したことがない。世界

史で流された血の染み付いたバトンを握る私たちは、今回こそは、今後使いものになる指

針めいたことを探ることはできないだろうか。

第一に、うがい、手洗い、歯磨き、洗顔、換気、入浴、食事、清掃、睡眠という日常の習

慣を、誰もが誰からも奪ってはならないこと。

あたりまえだ、という反応が帰ってきそうだが、歴史が我々に教えているのはむしろ、戦

争とそのための船上および鉄道での移動がこのあたりまえの習慣を困難にしたことである。

人間を不衛生な場所に収容・監禁することがこれを困難にしてきた歴史も、私たちは知っ

ている。仕事が忙しくても、仕事中に上記の基本的な予防(たとえば昼休みにも歯磨きを

することや共有のゴミ箱やトイレを丁寧に使うこと)を部下が実践することを、上司が止

めず、上司もみずから進んでやること。よく食べ、よく笑い、よく寝る、という免疫力を

つける重要な行為が、これまで仕事よりもあまり重視されなかったことを反省してみても

よい。

第二に、組織内、家庭内での暴力や理不尽な命令に対し、組織や家庭から逃れたり異議申

し立てをしたりすることをいっさい自粛しないこと、なにより、自粛させないこと。

その受け皿を地方自治体は早急に準備すること。総力戦体制だから「城内平和Burgfriede

n」(第一次世界大戦時にドイツで唱えられたスローガン)でいきましょう、というのが、

20世紀の歴史の常道だったが、異議申し立ての抑制こそが、かえって新型コロナウイルス

による被害を増大させるだろう。フランス大統領のエマニュエル・マクロンは3月16日の

テレビ演説で「我々は戦争状態にある」と繰り返し、アメリカ大統領のドナルド・トラン

プもみずからを「戦時下の大統領」と呼んで憚らないが、この言葉は諸刃の剣である。緊

急性を高めることのみならず、異論を弾圧することにも極めて効果的な言葉だからだ。


第三に、戦争にせよ、五輪にせよ、万博にせよ、災害や感染などで簡単に中止や延期がで

きないイベントに国家が精魂を費やすことは、税金のみならず、時間の大きな損失となる

こと。

どのイベントも、その基本的な精神に立ち戻り、シンプルな運営に戻ること。とくに、日

本のような災害多発列島はいつキャンセルしても対応可能な運営が望まれる。


第四に、現在の経済のグローバル化の陰で戦争のような生活を送ってきた人たちにとって、

新型肺炎の飛沫感染の危機がどのような意味を持つのか考えること。


危機は、生活がいつも危機にある人びとにとっては日常である、というあたり前の事実を

私たちは忘れがちである。いつ落ちてくるかわからない戦闘機に毎日さらされている基地

周辺に住む人びとにとって、爆音で神経が参ってしまうリスクや事故に遭うリスクは、新

型コロナウイルスに感染するリスクよりも低いだろうか。原発事故によって放射性物質に

さらされ、いまだに避難中の人びとにとって、病気になるリスクは、新型コロナウイルス

に感染するリスクよりも低いだろうか。上司の嫌がらせを受けながら働く人間にとって、

過労死や自殺やうつ病になるリスクは、新型肺炎で死ぬリスクよりも低いだろうか。ホー

ムレスが病気を患っている可能性は、新型コロナウイルスに感染する可能性よりも低いだ

ろうか。派遣労働者として働いているシングルマザーにとって、体を崩して子どもに負担

をかける怖さは、新型コロナウイルスの怖さよりも小さいだろうか。学校に馴染めない子

どもたちが学校によって傷つくリスクは、この子たちに新型肺炎が発症するリスクよりも

低いだろうか。権力を握る者たちは、毎日危機に人びとを晒してきたことを忘れているの

だろうか。なにより、新型コロナウイルスが、こういった弱い立場に追いやられている人

たちにこそ、甚大かつ長期的な影響を及ぼすという予測は、現代史を振り返っても十分に

ありうる。


第五に、危機の時代に立場にあるにも関わらず、情報を抑制したり、情報を的確に伝えな

かったりする人たちに異議申し立てをやめないこと。

台湾の保健省大臣のように、体力的にも知能的にも、何時間でもどんな質疑が来ても誠実

に応答できる人間だけが、政治を担うことができる。また、インターネット上の新聞記事

は、個人の生命に関わる重要な記事にもかかわらず、有料が多い。情報の制限が一人の救

えたかもしれない命を消すこともあるのだ。せめて新型コロナウイルスに関する記事だけ

でも無料で配信するのが、メディアの社会的責任である。


危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以

前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのた

めに、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投

げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができる

のか。これがクリオの判断材料にほかならない。



↑以上

長い引用をさせていただきました。




コロナ禍が我々にもたらすことは、単なる公衆衛生と病気の話にとどまらないのだ。とい

うことが分かる。

『自分の問題』として捉えることが出来るか? そこに全てがかかっているのだと思うの

だが、政治、経済、環境、人間の生活を支える仕事のこと、医療のこと、 食のこと、子

育てのこと・・・さらに、今回のコロナ禍のような人々の心に多大な影響を与えるときに

様々に発生する、憶測、疑心暗鬼、差別・・・などの我々の心のありよう・・・あまりに

多岐にわたる問題提起にやっぱり自分の中でコロナ禍をふまえて自分が何をどう学び、自

分が変わったのか、変わるべきか? について整理して理解する事が出来ない限界を感じ

てしまうのである。

しかし、「生活と自治 7月号」の往復書簡の中で、枝元なほみさんは、

「ウイルスは怖い、消毒して排除したくなる。でもそれが滅菌、排外主義にしないために

は多様性を受け入れる私たちの決意も必要です、〈どのように共存・共生していくか〉に

軸足を置きたいです」

と書かれている。その言葉が、たちまち限界に突き当たる自分のボンクラ頭の中で、ひと

つの落ち着く場所になったように思った次第。



                                                      2020年 7月



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