「 馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか 」





「今の私は馬鹿で人に騙されるか、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方

だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづ

くとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。」夏目漱石『硝子戸の中』




『硝子戸の中』(夏目 漱石 著)より 抜粋 ↓


 世の中に住む人間の一人として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然他と交渉の

必要がどこからか起ってくる。時候の挨拶、用談、それからもっと込み入ったかけ合い――こ

れらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。〈枯淡:

コタン:世俗にとらわれない〉


 私は何でも他のいう事を真に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろ

うか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧みないとすると、時々飛んでも

ない人から騙される事があるだろう。その結果蔭で馬鹿にされたり、冷評かされたりする。極

端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。 


 それでは他はみな擦れ枯らしの嘘つきばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も借さず、

心も傾けず、或時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢い人

だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しな

いとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手から仮定して、かからなければなら

ない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、

事が困難になる。


  もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶が起

る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善い人を少しでも傷けたくない。そうして私の

前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると

私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。


  この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして

相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろう

か。私の大いなる疑問は常にそこにわだかまっている。


  私のひがみを別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦い記憶を

もっている。同時に、先方の云う事やする事を、わざと平たく取らずに、暗にその人の品性に

恥をかかしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。


  人に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況

から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうし

て、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀には相手に彼相当な待遇を与えたり

している。


  しかし今までの経験というものは、広いようで、その実はなはだ狭い。ある社会の一部分

で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。

前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限ら

れているばかりか、その実千差万別に思慮を廻らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを

廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。


  それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極めてあやふやな自分

の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当った

か当らないか、要するに客観的事実によって、それを確める機会をもたない事が多い。そこに

また私の疑いが始終もやのようにかかって、私の心を苦しめている。


  もし世の中に全知全能の神があるならば、私はその神の前に跪ずいて、私にわずかでも疑

を挟む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶から解脱せしめん事を祈る。でな

ければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹な正直ものに変化して、私とそ

の人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙される

か、あるいは疑い深くて人を容れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。

不安で、不透明で、不愉快に充ちている。もしそれが生涯つづくとするならば、人間とはどん

なに不幸なものだろう。」〈玲瓏透徹:レイロウコテツ:透き通る様に美しい〉


 ↑ 『硝子戸の中』(夏目 漱石 著)より





         

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人との関わりあいには、事あるごとに自分の人間力の修養の足りなさを感じるけれども、漱石

先生のような方でさえ、人間関係の難事に悩み、心痛め、傷つきながら生きていたのか、と、

何かホッとする気持ちを覚える次第。


                                                      2020 年 11 月



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