『道楽と職業』夏目漱石 著「取捨興廃の権威はともに自己の手中にはない」   






「道楽と職業、一方に道楽という字を置いて、一方に職業という字を置いたのは、ちょうど東と

西というようなもので、南北あるいは水火、つまり道楽と職業が相闘うところを話そうと、こう

いう訳である・・・」 漱石先生、明治44年8月、明石での講演会。



            




職業というものについて漱石先生は「人のご機嫌を取るというくらいの事に過ぎない」と仰って

います。自分ごときの要約などしたら面白くありません。多く引用します。


以下

『道楽と職業』(夏目 漱石 著)より抜粋




「己のためにするとか人のためにするとかいう見地からして職業を観察すると、職業というもの

は要するに人のためにするものだという事に、どうしても根本義を置かなければなりません。

人のためにする結果が己のためになるのだから、元はどうしても他人本位である。すでに他人本

位であるからには種類の選択分量の多少すべて、他を目安にして働かなければならない。

要するに取捨興廃の権威共に自己の手中にはない事になる。したがって、自分が最上と思う製作

を世間に勧めて世間はいっこう顧みなかったり、自分は心持が好くないので休みたくても世間は

平日のごとく要求をほしいままにしたり、すべて己を曲げて人に従わなくては商売にはならない。

この自己を曲げるという事は成功には大切であるが心理的にははなはだ厭なものである。

なかんずく、最も厭なものは、どんな好きな道でもある程度以上に強いられてその性質がしだい

に嫌悪に変化する時にある。

ところが職業とか専門とかいうものは、自分の需用以上その方面に働いて、そうしてその自分に

不要な部分を挙げて他の使用に供するのが目的であるから、自己を本位にして云えば、当初から

不必要でもあり、厭でもある事を強いてやるという意味である。

よく人が商売となると何でも厭になるものだと云いますが、その厭になる理由は全くこれがため

なのです。

いやしくも道楽である間は自分に勝手な仕事を自分の適宜な分量でやるのだから面白いに違ない

が、その道楽が職業と変化する刹那に今まで自己にあった権威が突然他人の手に移るから快楽が

たちまち苦痛になるのはやむをえない。・・・元来己を捨てるということは、道徳から云えばや

むをえず不徳も犯そうし、知識から云えば己の程度を下げて無知な事も云おうし、人情から云え

ば己の義理を低くして阿漕(あこぎ)な仕打もしようし、趣味から云えば己の芸術眼を下げて下

劣な嗜好に投じようし、十中八九の場合悪い方に傾きやすいから困るのである。

例えば新聞を拵(こしらえ)えてみても、あまり下品な事は書かない方がよいと思いながら、す

でに商売であれば販売の形勢から考え営業の成立するくらいには俗衆の御機嫌を取らなければ立

ち行かない。(木村注/漱石先生は新聞の仕事を多くしていた〈こころ〉は新聞連載の小説)要

するに職業と名のつく以上は趣味でも徳義でも知識でもすべて一般社会が本尊になって自分はこ

の本尊の鼻息を伺って生活するのが自然の理である。」

「・・・そこでネ、人のためにするという意味を間違えてはいけませんよ。人を教育するとか導

くとか精神的道義的にその人のためになるという事だと解釈されてはちょっと困るのです。人の

ためにというのは、人の言うがままとか、欲するがままにといういわゆる卑俗の意味で、手短に

述べれば人のご機嫌を取るというくらいの事に過ぎんのです。だから御覧なさい。世の中には徳

義的に観察するとずいぶん怪しからぬというような職業がありましょう。しかもその怪しからぬ

と思うような職業を渡世にしている奴は我々よりよっぽどえらい生活をしているものがあります。

怪しからぬにせよ、道徳問題として見れば不埒にもせよ、事実の上から云えば最も人のためにな

ることをしているから、それがまた己のためになって、最も贅沢を極めているといわなければな

らぬのです。道徳問題じゃない、事実問題である」



と、職業というものが他人の伺いを立ててするものであると述べておられます。

そしてまた、他人本位でない職業について,



「ただここにどうしても他人本位では成立たない職業があります。

それは科学者哲学者もしくは芸術家のようなもので、これらはまあ特別の一階級とでも見做すよ

りほかに仕方がないのです。哲学者とか科学者というものは直接世間の実生活に関係の遠い方面

をのみ研究しているのだから、世の中に気に入ろうとしたって気に入れる訳でもなし・・・ただ

自分の好な時に好なものを描いたり作ったりするだけである。

もっとも当人がすでに人間であって相応に物質的嗜欲のあるのは無論だから多少世間と折合って

歩調を改める事がないでもないが、まあ大体から云うと自我中心で、極く卑近の意味の道徳から

云えばこれほどわがままのものはない、これほど道楽なものはないくらいです。」



そして自身については、



「・・・自分の研究以外は何も知らない・・・すべて知らないことだらけである。知識の上にお

いて非常な不具と云わなければなりますまい。けれどもすべてを知らない代りに一カ所か二カ所

人より知っていることがある。そうして生活の時間をただその方面にばかり使ったものだから、

完全な人間をますます遠ざかって、実に突飛なものになり終せてしまいました・・・幸いにして

私自身を本位にした趣味なり批判なりが、偶然にも諸君の気に合って、その気に合った人だけに

読まれ、気に合った人だけから少なくとも物質的の報酬(あるいは感謝でも宜しい)を得つつ今

日まで押してきたのである。いくら考えても偶然の結果である。」



と述べて、道楽を本位に生活する者に対しての世間の理解を求めて、



「・・・万事営業本位だけて作物の性質や分量を指定されては大いに困るのであります。私ばか

りではないすべての芸術家科学者哲学者はみなそうだろうと思う、彼らは一も二もなく道楽本位

に生活する人間だからである。大変わがままのようであるけれども、事実そうなのである。した

がって恒産(安定した生業)のない以上科学者でも哲学者でも政府の保護か個人の保護がなけれ

ばまあ昔の禅僧ぐらいの生活を標準として暮さなければならないはずである。直接世間を相手に

する芸術家に至ってはもしその述作なり製作がどこか社会の一部に反響を起して、その反響が物

質的報酬となって現われて来ない以上は餓死するよりほかに仕方がない。己を枉(曲)げるとい

う事と彼らの仕事とは全然妥協を許さない性質のものだからである。

私は職業の性質やら特色についてはじめに一言を費やし、開化の趨勢上その社会に及ぼす影響を

述べ、最後に職業と道楽の関係を説き、その末段に道楽的職業というような一種の変体のある事

を御吹聴に及んで私などの職業がどの点まで職業でどの点までが道楽であるかを諸君に大体理会

せしめたつもりであります。これでこの講演を終ります。 」――明治四十四年八月明石におい

て述――」『道楽と職業』(夏目 漱石 著より)



以上

『道楽と職業』(夏目 漱石 著・明治四十四年八月明石においての講演)より抜粋




漱石先生の言うところの『道楽と職業』という話のタイトルに惹かれて読みました。要約しても

つまらく思って多くを引用しました。やっぱり漱石先生は面白く、自分のような教養のない者に

も分かりやすく、”時代を超えて”いる事は本当に凄いぁなと、感嘆するのです。






常々、自分の職業を「趣味でやっています」と公言しているけれども、漱石先生のお話を聞いて、

様々に断片を思い巡らしてみれば、金銭欲からみれば趣味(道楽)として徹底している訳でもな

く、職業人として人のご機嫌を取るのに徹底している訳でもなく、とどのつまりは半端なのです

が、どうやらこのあたりが自分には丁度良いところなのだろうと感謝しているところです。



        

          久しぶりに朝の荒川土手を散歩


                                    2021年 3月




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