泣き虫
2005年  11月
指圧師 木 村  浩


 確か4、5年前のこと、雨の中央環状高速を仕事で走っていた時、ラジオから寅さん

の映画で有名な主題歌が流れてきました、「俺がいたんじゃお嫁にゃいけぬ、わかっち

ゃいるんだ、妹よ・・」たぶん多くの人がこの歌を聞いたことがあるでしょう。歌って

いたのは寅さん役の渥美清さんでなく八代亜紀さんでした。寅さんシリーズはたいてい

の作品は見ていますが、特に熱狂的な寅さんファンという訳ではありませんし、八代亜

紀さんの大ファンという訳でもありません。しかしその時に不意に涙がこぼれたのです。

僕の心のどこかにあった映画のシーンが無意識に作用したのでしょうが、何故急にそん

なことになったのか、自分でもちょっと不思議な感覚を覚えました。最近偶然にやっぱ

りラジオから同じ曲が流れてきたときに、その時のことを思い出したのです。今回はそ

んなことにはならなかったのですが、何故か「泣きたい」という感情を感じました。


 大人は泣かない?  

 子供の頃、僕は「どうやら大人は子供みたいに泣かないもんだ」、と思って育ちまし

た。そういうものだと思って歳を重ねてきた。大人は泣かないものだと直接に教えられ

てきたのかもしれない。「泣くな、頑張れ、強くなれ」と、確かにそうやって生きてい

くためのタフネスを培ってきた。しかし最近、不意に涙がでてきてしまうことがある。

子供が一生懸命に運動会で走っているのをみては目頭が熱くなり、ドラマやニュースを

みては悲しくて、嬉しくて不意に涙がでてきそうになる。大人のはしくれである僕は、

弱い自分を悟られまいと、涙を人に見せまいと努力する、なんとかごまかして涙を人に

悟られまいとする。


 反対に笑うという感情はたいていの場合、人目をはばからずに表現することができる。

笑いはオープンに出来るが、泣くという行為は人目がはばかれる。「泣くな、頑張れ、

強くなれ、笑って生きろ、大人は人に涙を見せないものだ」と、しかし、実は大人にな

ってから泣き虫になった、と自覚している人は多くいるような気がする。そして僕もそ

の一人。それをはっきりと自覚した時、「そうか僕は泣き虫で、弱虫で、情けなく、ひ

弱で、強くもなんともないちっぽけな人間だ」そう考えることで少しは楽な気持ちにな

ることを発見しました。涙もろくなるということは、もしかすると若い時の傲慢から少

しずつ離れていくことかもしれない、自分も弱い一人の人間だと気が付くことなのかも

しれない。


 大人になってから涙もろくなった。僕はそれでいいのではないか、その方が健全なの

ではないか、という気がする。けっして泣かない強い大人ばかりの世の中になってしま

ったら、うるおいのないカサカサとしてサツバツな世の中になってしまうにちがいない。

(だいぶそんな世の中になってしまっているような気もするが)大人が決して泣かない

世の中では子供達は笑って育つことができない、健全な社会とはいえない、と思ったり

するけれども、どうだろうか?


 赤ん坊は泣きながら生まれてきます、泣くことは生きることと同じ意味だったりする

のかもしれません。「泣く」ということに関して、そんなことを考えたりする今日この

頃。

                            2005年 11月


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