面授(めんじゅ)
2006年   5月
指圧師 木 村  浩



面授(めんじゅ)という言葉


 仏教に面授(めんじゅ)という言葉があります。面と向かいあい肉声で直接に教えを

授かるという意味だそうです。ずっと以前に五木寛之さんが書かかれたものにその言葉

を見つけてからずっと心の中に残っている言葉です。五木寛之さんは「本当に大切なも

のは人間から人間へ、面授からしか伝わらない」と書いておられました


 今僕らは誰かと連絡をとりたいと思った時に、手紙、電話、メールといった様々な手

段を選択できるようになりました。僕は基本的にはそれはいいことだと思います。どん

な場合でも選択肢がひとつではないということは「自由」であることの象徴的なことで

す。(それが必ずしも幸せなことであるかどうかは別の問題ですが)僕らはいつでも選

択肢があることを望んできたし、今までではあり得なかった選択肢を手に入れたことを

アリガタガッテきました。 僕自身メールを使えるようになってから人との連絡にこれ

をよく使うようになりました。お手軽でしかも相手の生活に唐突に割り込みをかけるこ

となくメッセージを残しておくことができる、それに対して返事をするのもしないのも

相手に委ねてしまっているところがいい(メールに返事をしないといって怒るのはなん

ともセンスのないことのように思います)しかし科学技術一般にいえることだと思いま

すが「ベンリ」を追求した結果としての「オテガル」さには大抵の場合、危うさもセッ

トになっていると考えたほうがいいと思うのです。(わかりやすくは便利さと引き換え

に科学は公害と環境破壊を同時にもたらしました)メールというベンリとオテガルは、

「言葉を粗末にする」という危うさを同時にもたらしたと思います。そこを認識した使

い方をしないとコミュニケーションは危ういのではないかと思うのです。そう考えると

メールより電話、電話より手紙のほうがコミュニケーションの重みというものがあるの

だろうという気がします。 話は少しずれますが、日本中をオートバイで旅をしていた

時に自転車や徒歩!で旅をしている人達に出会いました。自分はオートバイというベン

リでラクチンな乗り物で旅をしているのに比べて、自らの足で自転車をこぎ、徒歩で旅

をしている人がいるということを知った時、同じ旅でもその中身の「重さ」のようなも

のに圧倒的な違いがあると感じました。同じ距離を移動し(あのキツイ峠を人力で越え

たのか!)、同じ自然、同じ人に出会ってもその重みは明らかに違うものであろうと想

像できました。関連して言えば、僕は子供達が学校の教室からインターネットを通じて

地球の裏側にいる子供達と交流を持つというようなことをちっとも素晴らしいとは思わ

ないのです。距離と時間を超えるということは色々な意味で大変なことで、人間として

未成熟な子供達がオテガルにそれを体験したつもりになってしまうことに僕は疑問を感

じるのです。(うちのカミさんによれば、インターネットの超効率的なピンポイントの

検索システムのスピードと「カルサ」より、図書館を体育館なみの大きさにして圧倒的

な「オモサ」の本の海の中に子供を放り込んだほうがよほど子供のためになる・・・と

言うのです)


 僕らは人と面と向かい「会う」ことなしに、様々な情報を手に入れることができます。

居間で寝転びながらテレビの中の誰かに触発を受けることもある。しかし近頃問題にな

っている出会い系サイトにしても古くは文通にしても、人は結局のところ「会いたい」

という気持ちになるもののようです。肉声が届く距離にいる誰かから生きる勇気や励ま

しの声を聞きたい、テレビや活字の中ではなく自分がなにか触発を受けるような人とそ

んな距離で対面したいと、そういった人間関係の縁に恵まれることは「豊か」であるこ

との大きな要因です。

 面と向かいあって話しをするということは、お手軽であることや効率的であることと

は別次元の人間関係の有り様ではないでしょうか。それは僕の仕事である指圧ともあい

通じる概念をもつものであると思うのです。そんなことも感じて、仏教の言葉「面授」

が僕の気持ちに引っかかったのだと思います。

                              2006年 5月




 例えば同じセンタク?でも全自動洗濯機よりもタライで手を使ってごしごしと洗うお 手軽でない洗濯のほうがきっと思いの伝わる価値あるセンタクなのだろうなあ、などと 思いカミさんに言ってみました・・・・・ 「 自分でやってみれば?! 」
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