スイスイスーダラダッタ、スラスラスイスイスイー
2009年 10月
指圧師 木 村 浩
高度経済成長の時代に大ブレイクした僕の大好きなクレージーキャッツの看板歌手で俳優
だった植木等さんのはなし
〜スイスイスーダラダッタ、スラスラスイスイスイー・・・わかっちゃいるけどやめられな
い・・・〜
これはクレージーキャッツの代表曲<スーダラ節>です。クレージーキャッツが世に出る
きっかけとなったこの歌を歌うときに、ボーカルの植木さんはとても悩んだそうです。
「こんな無責任で不真面目な歌を歌って許されるんだろうか」と。
植木さんは、軽薄を絵に書いたようなキャラクターを演じ、クレージーキャッツの看板存在
になっていく訳ですが、本来の性格は極めて真面目な人で、スーダラ節の世界がどうにも受
け入れがたく、そんな歌を自分が歌うことに非常な抵抗があったそうです。
そういう葛藤を抱えていたときに、お寺の住職だったお父さんが「わかっちゃいるけどやめ
られない、は人間の真理を突いている、おまえは正々堂々と歌え」と言ったそうです。
お父さんのその言葉に救われて、真面目な植木さんは、胸をはってその歌を堂々と歌うこと
ができて、その後の大ブレイクとつながっていくわけです。
無責任でもとにかく生きていけ、という歌に痛快さをおぼえると同時に、真面目な息子を
勇気づけたその親子のエピソードに感動するのです。
植木さんのお父さんがどのような方であったか知る由もないですが、その時代にあって住職
の息子が、時代の最先端の表層を軽薄に流れていくような仕事に就いているということは、
世間一般には恥ずかしいことではなかったか? しかし、父は自分の息子の全てを受け入れ
て、「とにかく生きよ」、というメッセージを伝えたのではないか。と勝手に想像するので
す。仮にクレージーキャッツが無責任と軽薄さゆえに世の中から総スカンをくっても、その
お父さんは息子を100%受け入れたのではないかと思うのです。
親と子の関係に限った話しではなく、仮に自分という人間が世の中の全てから否定されて
も、受け入れてもらえる関係性を一つでも持っていれば、それは大きな安心を得る事になる
のではないでしょうか。 仮に芸能界の大スターになっても何か不祥事を起こせば、一瞬に
人々は自分から離れていってしまう。そんな中で「オマエが犯罪者になっても俺はお前の友
達だよ」という関係は一つか二つもてるかどうかではないか。一つでいいからそういう関係
をもっていると信じられることは、それが大きな安心と自分を維持するときの力になるので
はないかと思うのです。
植木等さんとお父さんのエピソードにそんなことを考えたりするのです。
クレージーキャッツはバンド時代に随分コピーし、演奏させていただきました。ですから、
その方々の存在感を強く感じていました。そのクレージーのメンバーも、ハナ肇さん、石橋
エータローさん、安田伸さんと亡くなり、植木等さんも2007年に亡くなりました。その
ことを考えるとき、時代が移り変わっていくのを思うのです。そして同時に、普段は感じる
ことのない、時代の中を流れそしてやがて消えてなくなっていく自分という存在をも意識し
たりします。
ちなみにクレージーキャッツで「馬鹿は死んでもなおらない」という歌もあります。
〜・・・とかくこの世は馬鹿ばかり、下手な考えおよしなさい、馬鹿は死んでもなおらな
い・・・〜
救われるような気がするのです
2009年 10月
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