自力で便所に行けない自分



 歩くことが困難になってしまった高齢の方を指圧させていただくことが多くなった。

歩行器や車椅子なしでは自力で移動できない方、それどころかほぼ寝たきりを余儀なくされて

いる方々・・・そんな時「自分も同じようになるのだ」と思うようにしている。

自分だけはそうはならない、というのはまったく根拠のない事だし、それを思うと、そのよう

な状況にある方々のことを自分と無関係だと片付けられないように思うのである。



 「まさか自分が歩けなくなるとは思ったこともない」、「ただ普通に歩けるという事がなん

とありがたいことか」、「ただたんに歩けるということが、ありがたいことだとは思ったこと

もない」、「バチがあたるような生き方をしてきたつもりはないのに、何故こんなめにあわな

くてはいけないのだろう」。 不自由の身になった方々は多かれ少なかれ、そんな風に胸のう

ちを語ってくれる。

戦争の時代を生き、貧しい生活に耐え、子供を何人も育て、一生懸命に働き、遊び、頑張って

生きてきた人々(その重さの軽重はあるにせよ、たぶん同じように自分もそうやって生きてい

る)が、まさか自由に歩く事ができなくなってしまうとは、考えもせずに生きてきた。

多くの(自分も含めた)人は、自分の足で歩ける体をもっていることは当たり前であり、当た

り前ゆえに、それを認識することすらない。

病気になり、高齢になり、生まれてはじめて直面する事態に、自由に動かせる体、ただ普通に

歩ける体を持っている、ということが、なんてありがたいことなんだろう、と気がつく。

 子供の頃、小児リウマチという病気だった自分は、体育の時間を見学する側にいることが多

かった。そんな時、「元気なときには、今日は元気でうれしいなあって思わないとソンだ」と

いうへんなことを思っていた。そんな子供時代を送ったから、こんなことが気になるのだろう

か。


                    
                     <老人ホームの屋上から>



 「自分も同じようになるのだ」、という思いは、小便がしたくなったら自分の足で歩いて便

所に行く、という当然のことができなくなる自分を想像させる。そして、自分の足で便所に行

くことのできない自分は、いったいどういう自分でいられるだろうか? と想像に至る。その

想像は「生きていくとはどういう事だろうか?」という思いにつながっていく。

自力で便所に行けない自分を想像することで、大事なことは何か?生きていくとはどういうこ

とか?、という理解につながっていくような気がするのである。



	理解するまでにはまだ時間が必要かと		 2010年 12月



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