「オトナ」と「コドモ」


 何かのおりに、年齢は?と聞かれることがある。一瞬考えた後に、そういえば自分は5

6になるのか、と驚いたり感心したり、

そのたびに、56と言えば立派な大人のはずだが?と、

学生の頃の自分と現在の自分とではどこがどう違うのだろうか。



◆年寄りはえらいか 

 この仕事をしていると、高齢の方に会うことが多い

戦争中に特攻隊員で死にそこなった。という方にお会いした

国家に洗脳され、死ぬことが自分の使命であると信じて疑わず、明日は死にに行くという

日に終戦をむかえたという

そんな時代に生まれなかったことの幸運を思うと同時に、明日は死ぬのだと思いながら生

きたその時代の若者と自分とでは、生きるという意味においてどちらが成熟した存在だろ

うかと、ふと考えれば、その答えは歴然としているように思うのである。



 子供の頃、「お年寄りをうやまいましょう」ということを大人からよく言われた

物心ついてから、なんで歳をとっているとえらいのか? と思うようになった

その思いはこの歳になってもやっぱりまだある

それなりの年齢になった自分は敬われる存在になったのだろうかと。



 年寄り未満と年寄りとの明確な違いは、生きてきた時間の長短で、それなら生きてきた

時間の長い短いでなにが決定的に違うのか

長ければ立派で成熟しており、短ければ未熟だと言うことだろうか

かつて戦争中に特攻隊員で死にそこなった若者は肉体の寿命に関係なく死に向き合わざる

をえなかった

戦争という状況がいい筈もないが、死に向きあうことが人が成熟することに大きな影響を

与えるのは間違いないことだろうと想像する

ならば、敬われるべき存在が必ずしも生きた時間の長短だけで判断されるのはおかしいの

ではないかと、やっぱり思ってしまう。




◆生きていることの喜びでなく 

  3.11の東北大震災では地震、津波の修羅場の中、親、兄弟、友人達との死に別れを体験

せざるを得なかった多くの人々がいた

遺体さえもみつからずに事実を受け入れざるを得なかった人々の中には多くの子供たちも

いる

その出来事はあまりにも重いものをその子供たちに背負わせてしまったに違いない

ゆっくりとした時間の中で少しずつ大人になる機会を奪われて、崖から突き落とされるよ

うにして成長することを強要されたのではないか。



 戦争や大きな事故や災害に遭遇することのない人生であっても、長く生きていれば 肉

親、友、世話になった方々、ふとしたことで縁を繋いだ人々との別れを重ねていく

生きていれば多くの出会いもあり、その出会いは必ず別れとセットになっている

その別れの最後に行き着く所は決まっている。



 子供の頃の父親との別れ、友人との別れ、お世話になった方との別れ、母親との別れ、

それらを思うとき、今現在 自分は生きている、ということを思い知らせてくれる

その感情は喜びではなく、哀しみではないだろうか

それを背負い、胸に留めておくことは、大人としての成熟であり、成長に必要なことでは

ないだろうか


その積み重ねこそ、「オトナ」と「コドモ」との違いではないのだろうか。



 

 サクラ あと少しで満開、  今年も咲いた 来年も咲くのだろうか



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 先日、母親の三回忌をやった

亡くなった日は東北大震災の日であった

その大震災という出来事は母親の突然の死の哀しみを「薄める」作用に働いた

というのは、母親の遺体に触れることのできる自分はまだ救われているほうなのだと、

正直そんなふうに思ったのである。

                              2013年 3月



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