ニューヨークの人に会った /その一 ■コミュニケーションを取ろうとしない!? 長くニューヨークに暮らしている方(日本人)と話す機会がありました。 その方に言わせると、「日本に帰ると、人びとが何を考えているのか分からない」と言うので す。 どうやら、日本人はコミュニケーションを取ろうとしない、そのことでイライラすることがあ る、と言うことでした。 「我々(日本人)の世界は、言わなくても分かるだろう・・・という文化だからではないです か?」と言うと、「多分そうだ」と言います。しかし、「理解しあったり、助けあったりする ことを拒絶しているようにも見える」とも。 言わなくても分かるはずだ、という前提があれば、「コミュニケーションに言葉はいらな い」のかもしれません。それはとても快適なことだと思います。 しかし、言葉による表現の技術が必要なければ、それを訓練する必要もチャンスも少なくなる のではないでしようか。ニュースをみていて、欧米の人々の一般人へのインタビューなど見て いると、言葉による表現がとても豊かに思える時があります。「この普通のおばちゃんは、な んでこんなに気の利いた事を言えるのだろう、ひょっとしたらインテリなのかしらん?」と感 心することがあります。言葉使いに「訓練」を感じるのです。 ■言わなきゃ分からない ニューヨークという街は、それぞれに文化的背景が異なるあらゆる人種がごちゃ混ぜになっ ている町だから、人それぞれに主義主張が異なることを皆が認識している、それ故、それぞれ が自分の言いぶんをハッキリ主張しないと生きていけない、人はそれぞれに皆違う、という事 を認めあうことで快適に生活できるのだという事です。 小さな事ですが、ハンバーガーを頼むのに、玉ねぎは入れないでくれ、などと個人的な嗜好を 当たり前のように注文する映像を見たことがあります。店員さんも面倒くさがる様子もありま せん(最近では日本でもそんなことが可能なお店もあるようですが)、そんな具合に、人は皆 ちがうものだ。という前提があるのがニューヨークという所のようです。 様々な国籍、民族がぐちゃぐちゃにいるから、当然、母国語はそれぞれ違いますが、つたなく ても英語という共通語を使って、人びとは互いに一生懸命にコミュニケートするのだ、とその 方は教えてくれました。 ■エレベーターで声をかける 初対面であっても、ちょっとした縁が生じれば何か言葉を交わすのは自然の事のようです。 エレベーターに乗り合わせた赤の他人にもちょっとした挨拶をするのだと言います。快適に暮 らすのにそういった事を必要とするのがニューヨークという街のようです。(同じアメリカで も、田舎となればどうなのでしょうか?) 少なくとも、東京に暮らしていて、エレベーターに乗り合わせた見知らぬ人に、いい天気です ね、とか、調子はどう? なんて話をかけた事はありません。乗り合わせたかわいい女の子に、 こんにちは、なんて気軽に言ったら一緒にいるお母さんに変な顔をされて警戒されるのがオチ です。 ■キケンな社会だからこそ? ニューヨークの話を聞くと、見知らぬ人間同士のコミュニケーションは、東京よりもより豊 かに発達しているようにも感じます。それに比べると、東京ではとても無機質で非人間的な人 間関係のなかで日々を暮らしているようにも思えます。 しかし、こんな話を聞いた事もあります。 隣に座っている人間が服の下に銃を持っているかもしれない社会だから、いつでもお互いを確 認しあわないと危ない。だからこそ、コミュニケーションを取って安全を確認しあう必要があ る。という話です。 それを聞けば、誰でもが銃をもつ権利を有するような社会で生活したくはありません。 けれども、我々の住む東京の暮らしでは、もう少し人間関係のコミュニケーションがあっても いいように思います。 先日は背中に背負ったザックのジッパーがハデに開いていたのを知らずに家まで帰ってきて しまいましたが、家に着くまでには沢山の人が自分のすぐ後ろにいた筈ですが、一人として声 をかけてくれた人はいませんでした。ニューヨークならどうだったか知らないけれども、開き っぱなしのザックを見て、誰ひとり声をかけて教えてくれる人がいないのにガッカリしたので す。(そのことに対する一つの理由を次回に書くつもりです) 北朝霞の雑踏/東上線と武蔵野線が交差しているから通勤時間は大混雑となる そんなことを考えていたら、以前カミさんにもらった本のなかに書いてあったことを思い出 しました。次回に書こうと思います。 2016年 8月