読書のたのしみ





■ 最近読了した本のこと



  いつものようにブックオフの100円コーナーを眺めていたら、『下流志向』というタイトル

の背表紙にスポットライトが当たり、 〜学ばない子どもたち 働かない若者たち〜 というサ

ブタイトルにさらに興味を掻き立てられました。


 下流志向 ー学ばない子どもたち 働かない若者たち−  内田 樹 著  

                       講談社文庫(2012年17刷)




       




■ 読書のたのしみ

 近頃は哲学者で教育者で武道家でもある内田樹さんの書かれたものに惹かれています。

本を読むことの楽しみのひとつは、無自覚から自覚への気づきを経験するということがあるけれ

ども、この本では、今という時代の背景に対して無自覚でいた自分が、読み進むうちに、今まで

意味不明の景色でしかなかったものが、実は必然をもってそこに存在していたことに気づかされ

る興奮を強く感じました。

  カミさんと息子は本をそのように扱うことを極度に嫌うのですが、気がつけば、読みながらほ

ぼ10ページおきにページのカドを折っていたのです。






■ 『学ばず、働かず』という現象


 学力の低下の問題を調べるなかで見えてきたことは、現代的な問題である登校(学び)拒否や

ニートの問題は、怠惰からそうするのではなく、むしろ主体的な決意をもってそうしている。そ

れは遠からず『下流社会』への階層降下を意味する。そういう下降志向の社会集団が登場してき

たという。


 ・我々の社会が長い歴史を経て手に入れた『学ぶ権利』や、『労働は義務であり同時に権利』、

それらを拒否することを堂々と主張する人々が現れた。


・かつて、学び・労働することは平和や幸せであることの象徴であり、語る必要さえないあたり

まえのことであったのに、『学ばないことや労働しないことを誇らしく思う価値感』の出現。


・何故、登校拒否する子供達や、引きこもりして労働をしない若者達が出現したのか?


・学ぶこと・労働することを拒否する人々は必ずしも怠惰からそうするのではなく、むしろ積極

的にそのような意思をもつようにイデオロギー的に誘導されている。



  ふと考えてみると、自分も子供の頃に、何故学校なんて行かないといけないのか?何故仕事な

んてしなくてはいけないのか? というようなことはチラッと考えたことはあります。しかし、

学校を卒業して就職することは、その時代の僕らにとっては疑問の余地のない生き方でした。ま

して母子家庭であった自分は高校を卒業し、労働(就職)することは、幸か不幸か(おそらく、

幸ですが)そういうものだと思い込んでいました。

しかし、いまや登校拒否やニートの背景には、『学ばないことや労働しないことを誇らしく思

う』ような価値が出現したというのです。それは個々人の問題ではなく、そのような社会を我々

が積極的に作ってきたのだ、と内田さんは書かれています。

 読み進めていくうちに、自分もこの時代にどっぷりと浸かり、そういう社会を担い、構成する

一部であり、時代に対して無自覚に人生を送っていることに気付きます。そして『学ばず、働か

ず』という現象に対して感じる違和感がどこからくるのか霧が晴れるように視界がひらけていく

のです。




■ 『無時間モデル』


 様々な視点を積み上げながらこのような状況が如何にして生まれたかをひも解いていくのです

が、視点のひとつに『無時間モデル』という概念がでてきます。本の後半の重要なキーワードで

す。

 人生の最優先事項が経済の原理原則に基づくものなら、教育と労働の目的と結果は、限りなく

ゼロ時間『無時間モデル』で得られるべきで、望むものを如何にして0時間で(即時に)手に入

れようとする現代社会の『無時間モデルのイデオロギー』が、学びや労働を拒否する価値が出現

した大きな要因である。その『無時間モデル』に対して、しかし学びも労働も『その意味は時間

をかけなければわからない』のだといいます。




■ 時間の流れのなかで


 本の中身についてもう少しかみ砕いて書いてみようと思いましたが、自分の力量ではとても内

田さんの書かれているものを的確に要点整理する自信がないし、ステップを踏んで読み進めなく

ては面白くないと思います。そこで、この本について推察するために、乱暴だけれども、最後の

ページの部分を引用させていただきます。



以下、引用↓


・・・・・今回触れることのできなかった論点のひとつは宗教のことです。21世紀は、全世界

的な傾向として間違いなくきわめて宗教的な時代になると思います。日本も当然この宗教性が強

まっていくでしょう・・・日本人はゆっくりと宗教的な成熟に向かってゆくだろうと予測してい

ます。これはやはり時間の感覚のことですけれど、悠久の流れの中のこの一瞬、という時間のと

らえ方ができる人間のことを『宗教的な人間』あるいは『霊的な人間』と呼んでよいと思います。

自分がこの広大な宇宙の、他ならぬこの場所に、他ならぬこの瞬間に、他ならぬこの人といっし

ょにいるといういう事実に、人知を超えた「何か大いなるもの」意思を感知できると、人間はと

ても豊かな気持ちになれる。

霊的な感覚というのは、無時間モデルのちょうど正反対の、いわば『最大時間モデル』といって

よいかと思います。そういう長大な時間の中に自分はたまたまいるという感覚に基づいて、やが

て、自分以外の誰も自分が今占めているこの場所この機能を代わって演じることができないとい

う感覚、つまり自分の唯一無二性の確信が芽生えてゆく。

 無時間モデル・ビジネスの理想が、キーボードを叩いてネット上で株取引が瞬間的に終了する

ことだとすれば、その特徴は匿名性と非身体性ということになります。ゆきかうのは電磁パルス

だけですから、キーボードを叩いているのが誰であるか、どのような身体を持っているのか、と

いうことはもう問題にはならない。仮にコンピューターに、株価の変動に反応して株の売り買い

をするプログラムをインストールしておけば、キーボードの手前には人間がいる必要さえない。

無時間ビジネス・モデルの極限のかたちはプレイヤーに「おまえは誰であってもよい」と告げ、

最後には「おまえは存在する必要がない」と告げることになるでしょう。

 僕たちの社会はそういう方向に近づきつつありますけれど、生物としての本能がぎりぎりのと

ころで「そういうのはいやだ」ときしむような悲鳴を上げるはずです。僕はそれくいらいには人

間の生命力を信じてもよいと思っています・・・・・


↑ここまで



『時間』について心に残った文章をあと一つだけ引用させていただきます。


以下、引用↓


・・・・・知性とは、詮づるところ、自分自身を時間の流れの中に置いて、自分自身の変化を勘

定に入れることです。

ですから、それを逆にすると、「無知」の定義も得られます。

無知とは時間の中で自分自身もまた変化するということを勘定に入れることができない思考のこ

とです・・・・・


↑ここまで



 この本の初版は2009年です。現在2017年ですから8年が経過しています。

内田さんはあとがきで、子どもたちが学びの場に戻り、若者たちが労働のモチベーションを取り

戻したせいで、この本の緊急性が失われる日がくることを願っています。と述べています。

2017年の時点で内田さんの心配が杞憂になっている状況にあるのでしょうか?




■ 読書のたのしみ

  ぼくらは、今生きているこの時代の中でしか生きられないし、この時代の空気から逃れること

はできません。今生きているこの時代や国、地域、親や友人などの人間関係の縁のなかで自分の

価値観は作られ、それに縛られていることについ無自覚でいるようです。視界に入っているはず

の景色が何故存在しているのか実はまったく分かっていない? さらにいえば、何故自分はこう

なのか? 自分自身たらしめているものはいったい何なのか?  自分のことは自分が一番分かっ

ているようで、実はわかっていない?という疑問を頭の片すみに置いておいたほうが良いのでは

ないか? それらの理解をFacebookやTwitterのようなものに依存して数行の言葉ですっきりと

片づようとするのは危険なことではないでしょうか。


  繰り返しになりますが、無自覚から自覚へ至る体験は、本を読むことの大きな楽しみのひとつ

です。ついインターネット情報のお手軽性に埋没してしまうことが多い毎日だけれども、こうい

う本との出会いがあると、あらためて本を読むことの楽しみと意味を確認するのです。     





     無知とは時間の中で自分自身もまた

         変化するということを勘定に入れることができない思考のこと




                      うーむ・・・      2017年3月



                                   

                               温泉なんて10年ぶり? 寝転んだ窓から



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